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結婚をまとめるのは女の仕事?

みなさん、古代中国やインドなど、インターナショナルかつ考古学的な感じですね 😀 わたしは、かなり地理的にも年代的にも身近な、日本の離島の婚姻についてのお話をご紹介したいと思います。
本日、たまたま見つけたのは、山口県の見島 [1]という離島の結婚のお話。

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見島(みしま)は、山口県萩市に属する島。面積 7.73km、人口約1200人。 南側にある本村地区、北側にある宇津地区の2つからなり、本村の北側・払子には航空自衛隊の基地がある。見島郡に所属していたが明治29年(1896年)4月1日阿武郡に編入された。(Wikipediaより)

出典は、「わたしの見島」(原一男監督)というドキュメンタリー映画のために、スタッフが行ったフィールドワークをまとめた、「CINEMA塾」テキストリンク [2]です。
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「結婚」のページを簡単にまとめてみました
~昭和39年に発行された見島総合学術調査報告より~
・見島の人々は、島内婚をくり返すことで、族縁関係の連帯意識を強めてきた(家の血が引き継がれていくことに配慮がはらわれ、助け合う力になる親戚や分家の多いことが喜ばれた)。
・見島には4つの集落(浦区・東区・西区・宇津)があり、それぞれにきわめて閉鎖的で、相互間の通婚は少なかった。
理由①
  労働力を基調とする婚姻的血族関係が集落を支える結合の絆だから。例えば、農業集落(東区・西区)出身の娘では漁家(浦区)の仕事(延縄をくりなおして釣鉤に餌をつける作業や網のつくろい)ができなかった。また、東区と西区では、同じ農業集落という共同体的地縁関係から、通婚がみられた。
理由②
  それぞれの集落に属する人々の生活感情が異なっていた。
 東区・西区から、浦区へ嫁ぐ女性がいたら、東区・西区の人からは「与太者(仕事嫌い、怠け者の意)」といわれて軽くみられた。
 一方、浦区の人は、農業集落の東区・西区に嫁ぐことについて「(農家の女の働きが、漁家のそれに比べて、相当きびしいことから)泥まみれにはなりとうはない」と言って、東区・西区へ行くのをさげすみ厭う傾向があった。地理的な隔たりもあり、宇津と他の集落との通婚はみられなかった。
なるほど~、婚姻相手の範囲が、地理的なものや生業とする職業によっても変わってくるんですね。ほんの数十年前のことなのに、現代の視点から見るとびっくりです
でも、もっと驚いたのは、次の部分です。ちょっと長いけどそのまま引用しちゃいます

 このように、婚姻関係で結ばれる血族がきわめて近接した集落内に生活することから、島の社会の重点が婚姻関係におかれるようになっていた。そういうわけで、年ごろの息子や娘をもつ親にとって、結婚の相手を見定めることは重要なことだった。嫁のやりとりは、女親がきめて、男親がくちばしを入れることは許されてなかったらしい。母親は、自分の息子の嫁になる女性をみさだめると、まず親戚の女達に相談し、それで納得を得ると、娘の側の血の濃い親戚の女(娘の伯母など)に頼んで交渉してもらうか、または直接娘の母親に交渉するなどして、下話はほとんど女たちの間で進めらていたのだという。その際、近親結婚であるために、家筋や家柄が妨げになることも少なく、話がおよそ決まると、それぞれの者に正式に話を持ち出す。これも了解を求めるための形式的なもので、その時点で仲人が立てられる。結婚の主役である若者二人に対しても、縁組の話は、この時になってはじめて明らかにされたらしい。

ほ~ 昔の日本って、家父長制で、一家の主である父親が相手を見つけてきて有無を言わさず結婚するみたいなイメージがあったんですが、母親や親戚の女、つまり「女たち」が全てを取り仕切っていたんですね。近親結婚であるからこそ、家柄が妨げにならないこととか、同じ職業の家に嫁ぐことで、嫁も役割を担える(小さい頃から家でやってきたのと同じことをすればいい)とか、かなり合理的かつ安心感のある制度だったのではないかと思います

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