弥生時代に日本にやってきたのは、『苗族って? [1]』で紹介されている苗族(北方系)ではなく、南方系の倭族だったとの説があります。ただし大陸からは幾度もやってきているので、いずれは北方系に支配されることになります。
長江流域にはもともとの南方系住民である倭族――稲作民族で大地信仰=母信仰――と、北方から移住してきた苗(ミャオ)族――雑穀・小麦文化の担い手で天信仰=父信仰――が混在していたようです。
苗族の出自は黄河・淮河流域とされており、どこかで父系制に転換している。恐らく、黄帝の頃(5000年前頃)を皮切りとする遊牧部族の掠奪闘争に巻き込まれて、逃げ落ちる過程で母系から父系制へ転換したと考えられます。
以下『中国人民 [2]』より。
苗(ミャオ)族は、伝説の炎帝、黄帝の頃には、黄河・淮河流域に生活していた。2000年以上前に、一部がいまの江蘇省や浙江省の辺りを経て貴州省東南部に移住し、土地を切り開き、自給自足の生活を始めた。そして長い歴史の中で、多くの支族に分かれ、居住地によって山ミャオ族、高坡ミャオ族、装飾によって黒ミャオ族、花ミャオ族、細ミャオ族、長裙ミャオ族、短裙ミャオ族などと呼ばれるようになった。
伝説上の彼らの祖先は、山中での新生活を始め、共同で外来の侵入者を食い止めるために、兄弟の契りを結び、ともに家族のように助け合うことを誓った。そして、「超短裙ミャオ族同士の結婚を禁止する」との厳しい村の掟を作った。
それ以降、村の少女は成人すると、両親のすすめる男に嫁ぐために故郷を離れ、心を引かれた男性の元を去らなければならなかった。
掠奪闘争というかつて経験したことのなかった戦争圧力が契機になり、氏族内の通婚(母系の勇士婿入婚か?)から氏族外への父系嫁入婚へ、集団の存続をかけて厳しい転換をしたことが読み取れます。
闘争圧力増大に対応する父系化には、女の移籍によって部族連合に代わる氏族間の連帯を強める意味も込められており、後の政略結婚につながる原型が見て取れます。
読んでもらってありがとう(^_^) by岡