北方の苗(ミャオ)族と南方の倭族1 [1] の続き。
大阪教育大名誉教授の鳥越憲三郎氏によると、苗族は4500年前頃に長江中流域に南遷し、倭族を蹴散らして国を建てる。
そして、戦乱で大陸全土が乱れた戦国春秋時代、倭族は追われてついに日本にも辿り着くことになる。
以下『四川百話-長江流域の倭人文化 [2]』より。
苗(ミャオ)族は倭族ではなく、黄河流域の北方民族に属する。洛陽の南の南陽周辺が苗族の原住地と見られている。紀元前 2500年前後に長江中流域に向けて南遷した。
長江文明を代表する三星堆文化 [3](4500年前~)は父性文化で苗族によるものではないか。女性が圧倒的優位を持つ南方農耕民族の母系制社会の象徴体系とは明らかに違う。
その後苗族は長江北岸の湖北省に楚の国を建て、秦の始皇帝の全国統一によって滅ぼされるまで有力な文明を築いた。
また一部は洞庭湖西側に住み着き、さらに一部は洞庭湖南側に定住してヤオ族(徭のけものへん)となった。
もともと洞庭湖周辺にいた倭族の一族であるトン族(にんべんに同)はこれに追われて南下した。トン族は今は貴酬省最南端の広西チワン族自治区との境に住む。
長江流域に逃れた苗族は、先住民である倭族を蹴散らして、掠奪闘争は玉突き的に広がっていく。このように国を建てた苗族も再び、同じ北方系の漢民族に攻められ、辺境へと追いやられていく。
しかし、これらの地域には倭人系で南方に追いやられた民族のほうが多く、その中にまじって、苗族、ヤオ族は高床式を作らず、米よりは雑穀を好む北方民族の生活習慣を今も守っているという。
そして日本に辿り着いた弥生人は苗族ではなく倭族とのこと。
倭族というのは、長江全流域にわたる水稲耕作文化の担い手のことであり、その一部をなす呉の人々が越に滅ぼされて当方に逃げて韓半島で馬韓、辰韓、弁韓の三韓を形成し、その別働隊が北九州に入って弥生人になった。
負けた呉のあと同じ系統の民族である越も滅ぼされて南方に追いやられるので、ここでいう「倭人」の範囲は韓国と日本だけでなく、ネパール、雲南、ミャンマー、タイ、ベトナム、インドネシアにひろがった。
後漢の『論衡』に倭人が出てくるが、この倭人は重慶付近を本拠地とした巴人のことで、「巴族は入れ墨をし、夜明けまで歌垣をしていた」点で日本に伝わった倭人と共通の文化を持っていた。
漢族の住域が地理的に中央アジアの先進文化を受容しやすかったことから、黄河中流域を中心として高度な文化を開化させ、その結果、長江流域の倭族に比べて政治的・文化的に大差をつけることになった。その彼らの武断的権力にもとづく領土拡張の犠牲となって、倭族たちは次々に僻地へ逃避せざるを得なくなったのである。
現在に残る倭族の範囲は、長江全流域、西はネパール東部、南は東南アジア、インドネシア島嶼部、北は江蘇省、安徽省、山東省、東は朝鮮半島中南部から日本全域と、非常な広範囲にわたる。
弥生時代、日本に水稲耕作と妻問婚(母系制的対偶婚)が持ち込まれますが、それが倭族であったと考えれば辻褄が合います。
読んでもらってありがとう(^_^) by岡