江戸の長屋事情vol.2?です。
昨日koukeiさんが長屋の共同体を紹介して頂きました。人情溢れる感じがして、できればタイムスリップしてその生活に触れてみたいものです 😉 😉 。
さて、その江戸には町人が50~60万人いたとも言われており、その治安は町奉行(他、町年寄)が受け持っていました。しかし、その数は町人に対してかなり少なく、とうてい管理できるものでは無かったようです。
そこで機能していたのが長屋の共同体=自治組織です。
屋主(大家)・店子(テナント、借屋主)が組織したり雇ったりしたのが 「自身番」や
「木戸番」です。
さて前置きが長くなりましたが、この自治組織の最末端である 「木戸番」の役割について紹介したいと思います。
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↑木戸番・夜の顔 ↑長屋での生活(「登別時代村」HPより)
応援宜しく!! 😀 😀
↓
木戸番とは、各町の入り口(木戸)を管理していた人のことです。(町によっては住み込み)
夜の10時(6時とも言われている)には木戸を閉め、早朝6時に開けるのが決まりだった。
※木戸とは:町の境や要所に警備のために設けられた門の事
もちろん夜警を務める事になるので、結構ハード。夫婦で勤めたりもしていた様です。
しかし木戸番とはただの番人だけが仕事ではないんです。
自治組織の最末端とはいえ、防犯、防災、深夜の来客の取次ぎ、拍子木(ひょうしぎ)を打ちながら火の用心の見回りを行ったりしました。
また、昼は町内のキオスク(副業)として、鼻紙、わらじ、駄菓子、夏には金魚、冬には焼き芋などを売ったり、町内の使い走りとして書状や伝言を届ける仕事でチップをもらったりもした。さらに、火事の場合は火消人足への炊き出しの場所でもあったそうです。
そして、町の住人が毎日通る場所であった事もあり(番人の人柄にもよりますが)、時に相談役となって皆の話を聞いてあげていたとか。 😛 😛
まさに何でも屋さんであり、町人にとっても無くてはならない存在だったのだと思います。
文献によっては「どうしようもない者がその役を務めるさせる」とも表現されているようですが、どうしようもない者が出来る役割では無いような気がしました。
ますます長屋の共同体事情に興味が湧いてしまう今日この頃です。
※参照させて頂いたサイトはこちら
http://nyanko001.blog.ocn.ne.jp/kabu/2007/03/post_c1dc.html [2]
「江戸・東京の地理と地名」
http://www.edo-trip.jp/study/edostreet.html [3]
「登別時代村」
http://www.viva-edo.com/jiti.html [4]
「ビバ!江戸」