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江戸性文化の吉原とは、何だったのか

吉原遊郭は、幕府公認で遊女屋を集めての遊郭を公許した施設。吉原の町で自治統治して、政府に上納金を納めていた。
しかし、いつも違法な遊女屋(それらが集まったところを岡場所と呼んだ)との競争を繰り返していた。法律で規制され廃止されるまで、300年続いた。江戸前期は主に金持ち武士が対象だったが、後期は主に金持ち商人を対象とした。他の遊女屋との競争対策として、吉原遊郭は高級化・幻想化路線を歩んだようで、その象徴が「花魁」であった。
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「古典和装しらゆき」より
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『花魁(おいらん)』(ウキペディアより)

狭義の花魁は、禿や振袖新造を従えた格の高い遊女であって、張り店は行わない。花魁を揚げる場合は揚屋・引手茶屋を通さなければならない。
花魁が呼び出され、遊女屋から茶屋まで向かうことを花魁道中と呼んだ。花魁には教養も必要とされ、花魁候補の女性は幼少の頃から徹底的に古典や書道、茶道、和歌、三味線、囲碁などの教養、芸事を仕込まれていた。
花魁を揚げるには莫大な資金が必要であり、一般庶民には手が出せないものであった(花魁の側も禿や新造を従え、自分の座敷を維持するために多額の費用を要した)。人気の花魁は「遊女評判記」などの文学作品に採り上げられたり、浮世絵に描かれることもあった。

興味深いのは、
・花魁は、現代の女優やモデルのように庶民のファッションの先端として持てはやされていた事。
・遊女が、社会的にある程度は受け入れられていた事。
・吉原の女は年季奉公で、約10年で自由庶民に戻れる。
等など多数あります。
江戸初期は、単身赴任の武士や独身の男が多く、その性の対象として遊女が必要とされた。江戸の町が、時代と共に都市化や市場化していく中で、性もどんどん市場化(お金で買う)されていく。
しかし、性文化をオープンで扱うと言う日本の性文化は継承され来た。幕末に来日したペタウンゼント・ハリスは、その遊女をスター扱いとしている吉原性文化に驚いたらしい。

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