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「こやらい」にみる子育ての精神

Posted By naoto On 2007年9月29日 @ 9:23 PM In 未分類 | 4 Comments

高校生の自殺や、親殺しが相変わらず続いています。現在の一対婚による密室家庭での「子育て」は、修復以前に、根本的に狂っているのではないでしょうか?今回は、「こやらい」を通じて、過去の子育てを振り返ってみたいと思います。
「こやらい」と一人前 [1]より
《引用開始》
「私はこやらいの最中だ」とか、「あなたはこやらいが終わった」などと、八幡浜地方では育児のことを「こやらい」というが、これは標準語ではなく、中国・四国地方に残る方言である。
大藤ゆき著『児やらい』には、「愛媛県宇和地方でもコワライ、コアライなどといい、同様の意味(養育のこと)に使っている。
山口県大島では子どもの世話になやむことがコヤラエであった。
「追いまわすだけでなく、大きく成長をしてゆく子を母の手から放すことを意味している」と紹介されており、「こわらい」、「こあらい」、「こやらえ」等の方言があったようである。
もともとこの方言は、子を「やらう」ことから来た言葉であるが、「やらう」とは、動詞「やる(遣)」の未然形に、反復・継続を表す助動詞「ふ」が付いたもので、追い出す、しりぞける、追い払うといった意味がある。
子供を育てることを「やらう」・追い払うと表現することは奇妙な感じもする。
これは、現代の子育て・教育は、親が前に立って子供を引っ張る立場にあるのとは正反対に、かつては、親は子供を大人社会へと追い出して一人前にしようと後ろから支える立場にあったことを示しているのかもしれない。
子供を世間に巣立たせる意味で「やらう」・追い出すという言葉を用いたのだろう。
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文献上では「やらふ」は、神とか鬼・儺といった非日常的な存在を追い立てる場合にしか使われていない。
「こやらい」の子・子供に関しても同様で、子供は、社会的に一人前として承認されてはなく、民間で「七つまでは神の子」とか「六つまでは神のうち」といわれるように、いわば神と人との中間的存在とされる。
「こやらい」は子供が非日常的な存在から、一人前になって大人社会に加入して日常的な存在になるように仕向けるという意味もあると言える。
《引用ここまで》
共同体社会が崩壊してしまった現在、みんなで子育てを試行する子育てグループも、みかけるようになりました。
これ自体は、いい傾向なのだと思うのですが、決定的に欠けている点があるように思います。
「神の子」=授かりものであり、預かりもの。
それを一人前にするのが、親の勤めなのだと思います。
当たり前すぎて、疑うことのない「自分の子」という意識が、「こやらい」に根付く精神とは全く逆の方向に子供たちを追いやっているのではないでしょうか?
「自分の子」という意識が、どこから生まれてくるのか?
いっしょに追求しませんか?


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