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「幇」:移動と融合の中華民族が生み出したもう一つの人間関係

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東洋と西洋。
今回も中国について迫ってみます。
中国には「(バン)」という特有の人間関係があります。
」については、「縄文と古代文明を探求しよう!」:中国の特有の人間関係 「幇」 [1]などで紹介されています。
中国人の独特な気質を解く鍵は、どうやら「」にありそうです。
今回は、シンガポールの華人社会についてのレポート「華人社会について」 [2]より、「」について探っていこうと思います。
華人って? [3] シンガポールって? [4] ←Wikipediaより)
↓いつものをヨロシクお願いします。
[5]


レポート「華人社会について」(シンガポール日本文化協会)(1) [6](4) [7]より、抜粋して紹介します。
●まず、そもそも中華民族の特徴って何?

中華民族の特徴
 華人社会を語る前に華人の先祖の中華民族、あるいは漢民族の由来と2つの特徴を紹介したい。中華民族は漢民族を中心とする56民族により構成される。中華民族、特に全人口の約9割を占めている漢民族は永い歴史の発展過程で2つの特性を形成されている。それは強い移動性と多元一体性である。
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 昔から幅広い国土に住み着いた中国人は戦争、戦乱、自然災害、行商、開発建設などにより、しばしば移動する、または移動させられることを免れなかった。
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 国家としての中国の歴史は3126年の間、統一と分裂の繰り返しだった。表2によればこの3126年間の歴史の中で統一されていた時期が63%、分裂されていた時期が37%である。
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 秦の始皇帝が初めて中国大陸に秦王朝(BC 221~BC 206)を起こしてから易姓革命まで、合計24王朝と3つの共和制が政権を担ってきた。政権交代のたびに行政権を上手く行使するため、定都、遷都、あるいは置都によって新たな行政区を設立し、数十万人、いや数百万人の人々を強制的に住み慣れた土地から全く知らない土地に移住させてきた。
 移住させられた人々は地元の人々と上手く付き合う必要があった。また少数民族の地方政権の誕生と分裂政権により、地元と外来民族との間に融合、統合、整合のプロセスが数千年にわたり繰り返し行なわれ、新たな民族を生み出すこととなった。結果として中華民族の体質は水農耕(田圃)、旱農耕(畑)、狩猟と漁業的な人々の習性を一身に集めている。
 有名な中華料理の八宝菜、また佛跳 (Buddha Jumps Over the Wall)はその相応しい例えと言える。これらの料理は8つまたはそれ以上の原材料で時間をかけて新たな味を作り出すもので、純粋な純正の味を追求する日本料理に馴染んできた日本人にとっては不思議な料理であるかもしれない。
華人社会について(1)─華人の祖先の特徴と華人の定義の変換①─ [6]

とてつもなく広大な大地にたくさんの様々な民族がひしめき合う。そして、王朝の統一と分裂が繰り返され、政権交代のたびに数十万~数百万人規模での強制移住を強いられてきた。そんな外圧条件に適応してきた中華民族の特徴は「移動性」と「多元一体性」に集約されるようです。
まず「移動性」。政権交代(戦争・戦乱)による移住に加え、洪水などの自然災害からより良い自然条件の地への移住や、また、万里の長城など大規模な開発建設のための人員移動など、とにかく移住しまくってきた民族ようです。このように新天地を求めて移動する性質は、現在世界各地に広がっている華僑・華人の数(3000万人を超えるという)にも現れているようです。
そして「多元一体性」。移動すれば当然、地元の人々との接触が生じる。新たな人々といかに上手くやっていくか?これは、入る方も受け入れる方も双方の共通課題であったはずです。そこで、支配・被支配ではなく、互いに影響し合いながら融合していく方法をとったのでしょう。その結果、様々な民族の性質が多元的に融合した新たな民族に生まれ変わっていった。まさに塗り重ねの民族と言えるかもしれません。
(八宝菜の例えはなるほどっ!です。日本人は寿司・天ぷらといったところでしょうか・・・)
ちなみに、これらの中華民族の特徴に対比して、西方の遊牧民族(古代ベトウィン [1] など)の特徴を表すならば、「移動性」と「掠奪性」というところになるでしょう。
●では、そんな中華民族が生み出した「幇」とは?

集団化された中国人、または華人の組織は通常、「幇」と呼ばれる。従って、華人社会を理解するには、幇に触れる必要がある。幇は、中華民族独特なものである。中華民族の多元一体の複合要素の中で社会のバランスを維持するために、幇という集団が生まれたり、消えたりする歴史が千数百年間も繰り返されてきた。幇は排他的のように見えるが、かなりルーズな包容力を持つため、内憂外患をもたらした。このため、幇は大きい集団にはなれなかったのである。中国人、または華人社会には幇はいつも何らかの形で存在している。その組織の内容は時代とともに変わっていくが、本質的にはそれほど変わらなかった。
 幇というものは基本的に表1のように公開的な幇と、秘密主義的な幇に分けられる。前者は「幇派」、後者は「幇会」と、それぞれ分類される。
華人社会について(4)─華人社会の三角関係③─ [2]

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「幇」とは、多民族の融合の過程で生み出された人間関係システム。「幇」には大きく、秘密主義的な「幇会」公開的な「幇派」があり、各々さらに多種多様な「幇」があります。
ここで着目したいのが、「幇という集団が生まれたり、消えたりする歴史」という点と、「幇は排他的のように見えるが、かなりルーズな包容力を持つため、内憂外患をもたらし、このため、幇は大きい集団にはなれなかった」という点です。
これらは、もう一つの強固な人間関係の軸(縦軸)である「宗族」(深く長い系譜を持ち、強固に結束する父系血縁関係)とは少し異なり対照的ですらあります。
「幇」の性質として、一旦契りを結べば(仲間になれば)、強固に排他的な仲間関係(自己収束的な集団)を形成していく。
一方で、この「かなりルーズな包容力を持つ」とは、何か共通の課題・目的・縁があれば入る者を受け入れる柔軟性と、環境(外圧)→課題・目的の内容が変わればそれに応じて集団自体も変わりながら適応していくという可変性を持つことを表しているのではないでしょうか?
シンガポール華人社会の例で見ると、「幇会」の背景には、19世紀初頭の植民地政府の体制未確立時期に、当てにならない政府(国)に対して、何とか民衆自ら華人社会の治安維持をしていくために闇の政府「幇会」が必要だったようです。実際、植民地政府も治安維持のために「幇会」を利用したとあります。そして、19世紀半ば以降、政府(国)の体制が確立してくると「幇会」は犯罪組織に転落していったようです。
また、各種の「幇派」の背景には、やはり、新規移住者と先着者との間に、ともに上手くやっていく(融合していく)ための拠り所の必要があったたことが容易に推測できます。
このような集団の多様性と集団の柔軟性・可変性には、移動と融合の中で中華民族が生み出した、(「宗族」に対して)もう一つの軸(横軸)としての人間関係「幇」の本質が現れているのではないでしょうか?

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