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長男しか結婚できない(?)婚姻制度

新年になりました。 新たな次代にどんどん変化している世界、日本です。
ところで、世界中の民俗には様々な婚姻制度が有りますが、日本にも驚くべき婚姻制度が明治時代まで、あったようです。mrran さんの「結婚形態と生産形態(白川村等)」を読んで、もう少し調べてみました。

長男のみが嫁をむかえて一家の跡継ぎとなり、その他の男子は、実家に居候しながら好きな女性の家に通い、生まれら子供は女性の実家の一員とされました。家長夫婦と長男夫婦の直系家族を中心に、長男以外の男子,他家の長男の嫁とならなかった女子とその子供たちを取り組みながら、一家の人数が膨れ上がりました。最大例では、明治45年の明治末期に40人の家族が暮らしていたという記録があります。


カルチャー はっとりNO2 [1]より
↓ポッチットを、お願い。


shirakawa.jpg「ようこそ 心豊かな旅に」より
岐阜県飛駅の西部、庄川上流域の一帯。明治・大正ごろまでは、交通不便な秘境で、そのため、明治まで大家族制度が残っていた。合掌造の民家のあることで知られる、岐阜県白川村などの世界遺産合掌造り集落です。
白川郷の家族制度について、「旅路 松田亮長」 [2]

誰でも大家族といえば、そこに幾組かの夫婦が寄り集まっているものと想像するに違いない。
そして実際に、東北あたりで大家族と称せられるものは、小さい幾家族かの寄合いで出来ており、その小家族の中には召使い夫婦も含まれているようである。
ところが白川村の大家族になると、その点がまるで違っている。まず主人夫婦がある。
主人すなわち戸主はトトと呼ばれ、ゴテともいわれる。主婦はやはりカカである。すでに隠居した老主夫婦がジジ・ババとして残っているのもある。それから長男夫婦がいる。
長男はアニであり、嫁は奇妙なことにオバと称せられる。
ところで大家族の中にはこれ以上にはけっして夫婦というものがない。
それとゆうのは、主人と相続人以外のものは、正式に結婚しないのがこの大家族の古い習俗であったから。では、これらの外に、どんな家族が住んでいたかというと主人の弟妹がいる。老主の弟妹がいる。兄の妹弟がいる。それから女たちは正式に嫁入りこそしないが、特殊な婚姻制度があって、つぎつぎと子供を生むからその子供たちがどっさりいる。
こんなわけで、ここの大家族はいずれも血のつながった同士の集まり、すなわち血縁家族なのである。


家族が多いから、下女や下男はいない。ある種の大家族には下男、下女を含み、また未婚の下女下男の大勢いるものがあるが、白川村の大家族はみんな血縁者ばかりで、召使いがいないということに大きな特色がある・・・・(中略)・・・・男は嫁をもらわないし、女は嫁にいかないのである・・・(中略)・・・しかし彼らといえども結婚生活をしないのではない・・・男は他の大家族の中にいわば許婚関係の妻をもっている。
だから女の側からいっても、他の大家族の中に許婚関係にあたる夫をもっていることになるのである。
ただ彼等は同居して、一つの家庭をもつことが許されないだけで、それぞれの夫婦関係を公然と持続しているのである・・・それでは、女たちの産む子供たちはどうなるのか。
女たちは家庭こそもたないがそれぞれ夫があるのだから、つぎつぎと子供が生まれる。
三人五人はもとより、中には遠慮なく一人で十人ぐらい生むのも珍しくない・・・こうゆう子供たちは、一般世間では父親の籍に入るのが普通であるが、この白川村では例外なく母親の家の籍に入る。
つまり女の家の主人が責任をもって養ってやるのである。
決して子供を父親に引き取れなぞといって、両家の間にいざこざなぞ起こらない。
それどころか、大家族で家族員の減る事を非常にきらって・・・女たちが赤ん坊の生まれることを喜んだらしい・・・」
江間三枝子著「飛騨の女たち」より


madori.jpg

合掌造りの家の中で夫婦同居が許されたのは家長とアニと称される次代の家長夫婦だけで、傍系の家族では、女性は「ちょうだ」と呼ばれる部屋、男性は囲炉裏のある家族団らんの部屋「でえ(でい)」や他の部屋に分散して寝た。


その他に、通ってくる男の為に別の出入り口など、夜這いようの建築プランが組み込まれているらしい。
「るいネット 夜這いを懐かしむ民宿の主人が見た現代の性」 [3]
何故このような、合掌造りが作られたのか?「白川郷 合掌造り文化」 [4]で次のように、書かれている。

水田耕作の困難なこの地域では焼畑に頼っていたが、不作・飢饉の繰り返しが続き、生活は常に脅かされていた。
こうした山里で現金収入の源となったのが「養蚕」であり、養蚕業は16世紀初頭頃から始められ、明治30年代に至るまでその生産量を伸ばした。
養蚕業の他に注目されるのは火薬の原料となる「煙硝づくり」であった。寛政年間(1789~1801)に越中から生産技術が導入されたと伝えられる煙硝は、主成分である硝石が含まれる煙硝草(ヒエがら・ヨモギ・ムラタチ・沼草等)から硝土を造り、これを精製して製造する。その製造場所として合掌造りの床下が利用された。
封建制の厳しい搾取の下、年貢米の代わりに換金可能な養蚕業に取り組んだ農家は、囲炉裏の上昇熱を利用して屋根部分で養蚕業を行った。又、床下では囲炉裏の脇に穴を掘り、煙硝を製造した。居住部分は1階だけになるので、合掌造りの大きな小屋組は養蚕業や煙硝つくりに携わる大家族と使用人の居住場所として必要な構造で、いわば労働集約産業の生産物とも言える。


家族制度も、生きていく為の外圧に適応して出来た制度であったのだろう。
 ・水田耕作の困難なこの地域では、不作・飢饉の繰り返しが続き、生活は常に脅かされていた。
 ・こうした山里で現金収入の源となったのが「養蚕」であり...養蚕業の他に注目されるのは火薬の原料となる「煙硝づくり」であった。
 山奥の交通不便で秘境であった白川郷で、「養蚕」「煙硝づくり」など労働集約産業を選択せざる得なかった彼らは、労働力の確保が生きていく為の至上課題であったのだろう。
さらに、家族がその労働集約の単位となっていた為に、『家族を減らさない(嫁に出さない)』+『家族(=労働力)を増やす』 と言う課題を前にして、適応してきたのが、白川村の大家族制度であったのだろう。
家族制度とは、元来は「恋愛」以前に、生きていく為にどの様な形態が良いのかという、生産からの要請に応えて変わってきた様である。現在の社会からの要請に、応える家族制度とはどのような形態なのだろうか。
 

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