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村の寄り合いとはどういうものだったのか?

Posted By kichom On 2008年3月1日 @ 9:42 PM In B 人類500万年に亙る共同体社会 | 7 Comments

日本古来の村落共同体において「寄り合い」は村社会の共認形成の場として重要な位置をしめていました。ではその「寄り合い」とは具体的にどのようにおこなわれていたのでしょうか?私自身なんとなくのイメージでしか理解していませんでした。
宮本常一著 「忘れられた日本人」にその様子が生々しく描写されているので紹介したいと思います。以下紹介するのは昭和25年頃の対馬での様子ですが、筆者は少なくとも京都、大阪から西の村々ではこのような村寄り合いが古くから行なわれていたと記しています。
以下長文なりますが、リアルな様子が伝わってきますので、是非ご一読下さい。
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伊予の村は対馬も北端に近い西海岸にあって、古くはクジラのとれたところである。私はその村に三日いた。二日目の朝早くホラ貝の鳴る音で目が覚めた。村の寄り合いがあるのだという。

(中略)

さて私は老人からいろいろ話を聞いている間に、この村には古くから伝えられている帳箱があり、その中に区有文書が入っている事を知った。そこでそれを見せてくれないかと頼んでみると、自分の一存ではいかぬという。帳箱には鍵がかっかており、その鍵は区長が保管しているが、総代立会いでないとあけられないという。それでは二人立会いの上で見せていただけないかとたのむと老人は人をやって寄り合いの席から二人をよんできた。
翌朝になって、「この文書をしばらく拝借ねがいまいか」と老人の家へいってたのむと、老人は息子に聞いてみねばという。きけば今日も寄りあいの続きが行なわれていて息子はその席へ出ているとの事である。そして人をやってよんで来てくれた。すると息子はそういう問題は寄りあいにかけてみなの意見をきかなければいけないから、借用したい分だけ会場へもっていってみなの意見をきいてくるといって、古文書を持って出かけていった。しかし昼になっても帰ってこない。午後3時をすぎても帰ってこない。「いったい何の協議をしているのでしょう」ときくと、「いろいろとりきめる事がありまして・・・・」という。その日のうちに三里ほど北の佐護まで行きたいと思っていた私はいささかジリジリして来て、寄りあいの場へ行ってみることにした。老人もついていってくれる事になった。言ってみると会場の中には板間に二十人ほどすわっており、外の樹の下に三人五人とかまたうずくまったまま話しあっている。雑談をしているように見えたがそうではない。事情をきいてみると、村でとりきめをおこなう場合には、みんなの納得のいくまで何日でもはなしあう。はじめに一同があつまって区長からの話をきくと、それぞれの地域組でいろいろにはなしあって区長のところへその結論を持っていく。もし折り合いがつかねば自分のグループへ戻ってはなしあう。用事のあるものは家へ帰ることもある。ただ区長・総代はきき役・まとめ役としてそこにいなければならない。とにかくこうして二日も協議がつづけられている。このひとたちにとっては夜もなく昼もない。夕べも暁方近くまで話し合っていたそうであるが、眠たくなり、いうことがなくなればかえってもいいのである。
ところで私の借りたい古文書についての話しあいも、、朝話題に出されたそうであるが、私の行ったときはまだ結論は出ていなかった。朝から午後三時まで古文書の話をしていたのではない。他の話もしていたのであるが、そのうち古文書についての話も何人かによって、会場で話題にのぼった。私はそのときそこにいたのでないから、後から概要だけ聞いた話は、「九学会連合の対馬の調査に来た先生が、伊奈の事を調べるためにやって来て、伊奈の古い事を知るには古い証文類が是非とも必要だというのだが、貸してもいいのだろうか」と区長から切り出すと、「今まで貸し出したことは一度もないし、村の大事な証拠書類だからみんなで良く話しあおう」ということになって、話題は他の協議事項に移った。そのうち昔の事をよく知っている老人が、「昔この村一番の旧家であり身分も高い給人(郷士)の家の主人が死んで、そのこのまだ幼いのがあとをついだ。するとその親戚にあたる老人が来て、旧家に伝わる御判物を見せてくれとといって持っていった。そしてどのように返してくれとたのんでも老人はかえさず、やがて自分の家を村一番の旧家のようにしてしまった」という話をした。それについて、それと関連あるような話しがみんなの間にひとわたりせられてその話題は他に移った。しばらくしてからまた、古文書の話になり、「村の帳箱の中に古い書き付けがあるのでよい事をしたという話もきかない。そういうものを他人に見せて役に立つものなら見せてはどうだろう」というものがあった。するとまたひとしきり、家にしまってあるものを見る眼のある人に見せたらたいへんよいことがあったといういろいろの世間話がが続いてまた別の話しになった。
そういうところへ私はでかけていった。区長が今までの経緯をかいつまんでひととおりはなしてくれて、なるほどそういう調子なら容易に結論は出ないだろう。とにかくみんなが思い思いの事を言ってみた後、会場の中に居た老人の一人が「見ればこの人はわるい人でもなさそうだし、話をきめようではないか」とかなり大きい声でいうと外で話していた人たちも窓のところへ寄ってきて、みんな私の顔を見た。私が古文書の中にかかれている事について説明し、むかしはクジラがとれると若い女たちが美しい着物を着、お化粧して見に行くので、そういうことをしてはいけないと、とめた書きつけがあることなどと話すと、またそれについて、クジラをとったころの話がしばらくつづいた。いかにものんびりしているように見えるが、それでいて話は次第に展開してくる。一時間あまり話し合っていると、私を案内してくれた老人が「どうであろう、せっかくだから貸してあげては・・・」と一同にはかった。「あんたが、そういわれるなら誰も異存はなかろう」と一人が答え、区長が「それでは私が責任をおいますから」といい、私がその場で借用書をかくと、区長はそれをよみあげて「これでようございますか」といった。「はぁそれで結構でございます」と座の中から声があがると、区長は区長のまえの板敷の上に朝からおかれたままになっている古文書を手にとって私に渡してくれた。私はそれをうけとってお礼をいって外に出たが、案内の老人はそのままあとに残った。協議はそれからいつまで続いたことであろう。
私にはこの寄りあいの情景が眼の底にしみついた。この寄りあい方式は近頃はじまったものではない。村の申し合わせ記録の古いものは二百年ちかいまえのものもある。それは残っているものだけれどもそれ以前からも寄りあいはあったはずである。七十を越した老人の話ではその老人の子供の頃もやはりいまと同じようになされていたという。ただちがうところは、昔は腹がへったら家にたべにかえるというのではなく、家から誰かが弁当を持ってきたものだそうで、それを食べつづけ、よるになって話がきれないとその場へ寝る者もあり、おきて話して夜を明かすもの者もあり、結論がでるまでそれがつづいたそうである。といっても3日でたいていの難しい話もかたがついたという。気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。話といっても理屈を言うのではない。一つの事柄について自分の知っている限りの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういう事なのであろう。

とにかく皆が納得いくまで結論がでるまで、昼夜を問わず話し合っていた様子が伺えます。
おそらくより序列社会であった江戸時代など、上からの一方的な押し付けにただ従うという構図をイメージしますが、実態は村社会のことはみんなで決めるという自治が相当進んでいたのでないでしょうか。
「寄り合い」とはそういう場に位置していたのでしょう。
私権原理から共認原理の大転換時代にあって、日本の多くで重ねられてきたこのような歴史は、日本人の持つ共同性を再認識させるとともに、共認原理を土台とした社会形成の大きな基盤ともなるのでしょう。


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