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東洋と西洋 ~近世農村:「水」をめぐる共同体社会~

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        知多半島を流れる水路(「水資源機構」 [1]よりお借りしました)
東洋と西洋。今回は前回に引き続き、日本の近世農村に迫ってみます。
>稲作には、水が必要です。水は当然ですが、高いところから低いところに流れるわけで、村全体の水田に水をいきわたらせるためには、村人全員の調整が必要になります。ここに、稲作の「水」をめぐる自治が生き続けることになります。<(前回、東洋と西洋 ~日本:惣村の崩壊から近世農村へ~ [2]より)
中世「惣村」から近世農村へ、日本農村の共同体的性質は「水」をめぐる自治を通じて生き続けていったようです。
どうやら「水」がキーワードのようですね。
では、近世農村における「水」をめぐる自治とは?
「水」、とりわけ国内延べ40万km(地球10周分)にも及ぶという「水路」が農村社会の形成にどのように関わってきたのか?
探っていきたいと思います。
↓↓いつものをヨロシクお願いします。
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サイト「水土の礎>大地への刻印>水がつくる国土と社会」 [4] より、参考になる記事を紹介します。

●水路が結ぶ社会
 農業にとって重要な水は、わが国では土地が個々の農家によって私的に耕作されたのと異なり、多くの場合私的に占有することができなかった。水を取り入れ、個々の水田に分配する機能は、村を単位として果たされていたといえる。
 河川を取水源として、水路によってかんがいされるシステムは、村々を結びつける。一つの村が、独立に水を獲得し、独占することができないからである。先進地域ではすでに中世から、一般には元禄・享保期ごろになると、戦国期以降の新田開発の結果として水は希少資源となり、取り合いが起きた。村々は鋭く対立し、土地の領域、用水の配分をめぐって流血をも辞さない紛争が発生した。枝分かれした水路へ次々と配分されていく過程で、水は上流と下流の利害の対立を引き起こす。特に渇水時には、上流側が水路を締め切り全量を獲得すれは下流側に水が流下せず、豊水時には隠れていたかにみえる緊張が一挙に表面化し、爆発する。水源水量の変動が大きく、地形勾配に沿って水を自然流下させるという、河川かんがいシステムの宿命である。
 しかし、村々の対立をそのままにしているだけでは、水の配分調整は困難になるばかりである。長い紛争を経て、村々の間に利害調整のための用水慣行が形成された。村々が井組や水組という組合をつくり、村々の連合ともいえるその組合の中で秩序づけられるという形である。調整された結果は、開発の古さや力関係を反映する。この組合が分岐する1本の支線単位なら、今度は支線間に利害調整の組織が形成され、末端から幹線へ、また元の河川へと同じ過程をたどって、ついには一つの大きな組織が必要となる。河川が大きくなるほど、広域的に複雑多岐にわたる。上層の組織になるほど強力な権威が必要となり、封建領主や国・県の行政がそれに当たった。時代によって権威は代わるが、用水の配分組織は変わらない。
 もう一つ重要なことは、組合は施設の維持管理をつかさどることである。施設が関与する地域全体が共通の利害をもっており、堰なら全域、水路なら分水点を境に水を配る区域と、範囲ごとに施設の機肯雛持のため、関係農民に補修などを共同労働で行うよう動員する。農民は、自らの死活に関わる施設であるから、それに従う。
 わが国の農業用水で河川を水源とするのは、面積・水量とも約9割を占める。1施設当たりかんがい面積は約24haと小さいが、この小さなまとまりごと、同じ河川ならまとまり相互の間に、こうした歴史的・社会的に形成された関係が横たわり、生き続けている。

「水土の礎>大地への刻印>水がつくる国土と社会」 [4] より引用させていただきました)
稲作農業に不可欠な水田の「水」は、当然ながら個人(農家)所有などはできず、大元の河川から幹線→支線→水路→水田へと、段階的な「水」管理組織(河川灌漑システム)により供給・利用がなされ、現代へと続いています。
・「水」は個人(農家)所有できない:「農家」
   ∥                  ∥
   ∨                  ∨
・各水田への「水」の分配(水路): 「村」(各農家を統合する組織)
   ∥                  ∥
   ∨                  ∨
・各村々への「水」の分配(支線):「組合」(各村を統合する組織)
   ∥                  ∥
   ∨                  ∨
・各支線への「水」の分配(幹線):「領主」(各組合を統合する組織)
   ∥                  ∥
   ∨                  ∨
・各幹線への「水」の分配(河川): 「国」(さらに上位の統合組織)
見事に段階的な管理システムですね。
しかしながら、このような段階的な「水」管理システム(用水慣行)が確立するまでには、長い道のりがありました。
河川から水を引き込むことの宿命ともいえる、上流・下流の利害対立→流血をも辞さない紛争が長い間繰り広げらたようです。

 そう昔のことではありません。犬上川(滋賀県)では昭和7年、「農民400余名竹ヤリかざしてにらみあう」と新聞でも大きなニュースになりました。10数名の犠牲者を出し、300人あまりの警官隊が3日かけてようやく騒ぎが収まりました。道徳や理屈などで解決できる問題ではなかったのです。
 あるいは、高時川(滋賀県)では、極端な渇水に見舞われたときは、下流の村人数百人が白装束に身を包んで上流の堰を壊しにいくという、戦国時代から昭和18年まで続いた「餅ノ井落し」があります。これは流血の惨事を避けるための農民の知恵であり、400年間の間に儀式化していったものでしょう。
 
 ~(中略)~
 
 上のような記録は、多かれ少なかれどこの村でも残っています。何百年におよぶ水争いや山争いを通して、様々な約束事ができたり、証文が交わされたりして、村々の「農」をめぐる秩序ができ上がっていったのです。現在では、このような争いはみられませんが、それは過去にこうした厳しい秩序ができ上がってきたからなのです。
 
 したがって、この秩序は、水利システムをコンピューターで操作する現在でも変わっていません。今でも大渇水になると、江戸時代の古文書の証文にしたがって水を分けたりする地域はたくさんあります。

「水土里の近畿に次世代に>水争いと「農」の秩序」 [5]より引用させていただきました)
激しい水争いがつい最近まで展開されていたとは驚きです。まさに生死を決する外圧状況だったのでしょう。
ここで注目したいのが、このような水をめぐる争い(同類闘争)がいかにして統合されていったかということです。
もちろん広域の大きな争いになるほど、その統合には力(権力)が必要であったと考えられます。しかし、各村々や組合の間では、力による支配・被支配ではなく、用水慣行という「みんなの取り決め」の形成で統合されていったことが伺えます。
それは、他の村の水を奪ってでも自集団だけが生き残ろうという自己中心的な原理ではなく、各集団共に何とか生きていこうという本源的な適応であったと思われます。
かくして、近世農村における「水」をめぐる自治は、長い水争いを経ながら、用水慣行(水分配システム)という「みんなの取り決め(共認=共に認め合うこと)」により生き続いていったと言えそうです。
希少な資源「水」をみんなで有効活用していく。近世農村とはまさに「水」をめぐる共同体社会だったのです。
このような「みんなの取り決め(共認)」の形成が可能であったベースには、やはり縄文時代から(決して緩やかではない自然外圧に適応する中で)培ってきた日本人の本源性(共同体的性質)があるのではないかと感じます。
読んでくれてありがとう。 🙂

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