日本人の起源に関係する遊牧騎馬民族匈奴の婚姻制 [1]は一夫多妻制で、嫂(あによめ)婚制、姉妹婚制を伴うものでした。
それが半牧・半農の烏恒・鮮卑 [2]では、略奪婚→婿入りして2年間労役→その後夫方へ嫁取り(その際、住居や生活用品は全て妻の家が整える)、というように母系に父系が入り込む折衷型となります。
では、北鮮の高句麗は?
高句麗(ツングースの夫余)は烏恒・鮮卑より母系色を強く残しており、後漢書では『妻問婚』と称しています。
後漢書の高句麗伝 [3]
>婚姻は妻問い婚で、子供が成長した後に(夫の家に)連れて帰る。
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by岡
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魏書では、女の家の主屋(おもや)の後に婿屋(むこや)とよばれる小屋を作り婿入り、子が成人すると父方へ、というようにさらに具体的に記述しています。
魏書東夷伝の高句麗伝 [3]
>高句麗の習俗では、結婚する時、〔両家の〕話し合いがつくと、娘の家では母屋の裏に小屋を作る。これを壻屋とよんでいる。壻は日暮になると嫁の家に行き、戸外で自分の名を名のる。そして跪拝し、嫁の宿に入ることを許してくれるよう願うのである。このようなことを二度、三度すると、娘の両親は壻の願いを聴きいれ、〔娘のいる〕小屋の中に宿ることを許すのである。〔この時〕傍に銭や絹を整えておく。〔夫婦に〕子が生まれ、その子が成人すると、〔壻は〕妻をつれて家に帰る。
さらに周書では、服喪の制度が漢族と同じとしており、漢人が混在していたことが分ります。(なお遊女はどのような存在かは不明。)
周書の高句麗伝 [5]
>風俗は淫を好み、それを恥とはしない。遊女がいるが、夫の無い普通の人である。婚礼には財幣(金銭や贈物)は省いて無くし、もし財を受ければ、これを売婢と言われ、習俗では甚だこれを恥とする。父母や夫の喪は、服喪の制度は華夏(漢族)と同じ。
高句麗人が日本の支配者になっても、婚姻制は先住の渡来系弥生人の母系妻問婚(高句麗の婿入りではなく通い)に同化してゆく素地があったことが分ります。