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2008年11月08日

騎馬民族は来たのか?①騎馬民族系王朝による日本征服説の骨子

『騎馬民族は来たのか?(序)』に続いて、江上氏の「騎馬民族国家」説について、その骨子を紹介しておきたい。

まず、結論をまとめると、

日本における統一国家の出現と大和朝廷の創始は、東北アジアの夫余系騎馬民族出身である辰王朝の末裔=崇神天皇~応神天皇によって、四世紀末ないし五世紀前半ごろに達成された

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ということだが、ポチッとしてからもう少し詳しくどうぞ!
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以下、前稿に引き続き『日本人の源流を探して』より引用する。(図版も拝借)

■騎馬民族説の骨子

 江上の著作、「騎馬民族国家」によって騎馬民族説の骨子を再確認しよう。

m121 江上はまず弥生時代から古墳時代全体を俯瞰して、前期古墳文化は鏡や剣や玉の副葬など多分に弥生式文化の要素を保っており、“すこぶる呪術・宗教的色彩が濃く”その担い手の社会は魏志倭人伝に見る倭地の状態からあまり遠くないと想像されるとする。
ところがその後の後期古墳文化(一般には中期古墳文化、後期古墳文化に時代区分されている時期)は前期のそれとは根本的に異質な文化が現れる。しかもその変化がかなり急激で、そのあいだには自然な推移を認めがたい。一覧表にすると次のようになる。

(クリックすると大きくなります↓)
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m122 後期古墳文化で副葬されている武器・馬具・服飾品の大部分は、--形象埴輪によってみられるところも同様であるが--3世紀ころから5世紀にかけて、満蒙・北シナ方面に大活躍した東北アジアの騎馬民族、いわゆる胡族のそれと殆ど全く同類である。(前出の写真を参照)
この大陸北方系騎馬民族文化複合体は、あるものが部分的に、あるいは選択的に列島に受け入れられたとは認められない、いいかえれば文化複合体が、一体として、そっくりそのまま、何人かによって、持ち込まれたものであろうと解される。


m123 従来、馬牛の少なかった列島に、後期古墳時代になって急に多数の馬匹を飼養するようになった。(下図参照)

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これは馬だけが大陸から渡来して人は来なかったとは解しがたく、どうしても騎馬を常習とした民族が馬を伴って、かなり多数の人間が大陸から列島に渡来して来たと考えなければ不自然である。


m124 後期古墳の濃厚な分布地域が軍事的要地と認められるところに多い。(筆者注:森浩一は前方後円墳は港の見える交通の要所に、とくに中期以降位置してるといっている。これも江上と同じような見方であろう。)


m125 一般に騎馬民族は陸上の征服活動だけでなく、海上を渡っても征服欲を満足させようとする例が少なくない。(筆者注:蒙古襲来すなわち元寇はその良い例だろう。中国王朝の中で日本列島にはるばる侵攻したのは、騎馬民族であるフビライ汗の元朝だけである。)
したがって南部朝鮮まで騎馬民族の征服活動が及んだ場合、列島への侵攻もあり得ないことではない。


江上は以上の理由を挙げて騎馬民族説の正当性を次のように主張する。
---私は前期古墳文化人なる倭人が、自主的に、騎馬民族的大陸北方文化系文化を受け入れて、その農耕民的文化を変質させたのではなく、大陸から朝鮮半島を経由し、直接日本に侵入し、倭人を征服・支配したある有力な騎馬民族があり、その征服民族が、以上のような大陸北方系文化複合体をみずから帯同してきて、日本に普及させたと解釈するほうが、より自然であろうと考えるのである。---

=======引用 以上=======

以降、その論拠について紹介~検証を加えていきたい

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