2008年11月13日
騎馬民族は来たのか?② 騎馬民族系王朝による日本征服説の証拠!?
江上波夫は『騎馬民族国家』のあとがき(1984年4月記)で次のように高らかに宣言しています。
『本書が中公新書の一冊として出版されてからすでに十七年近くなる。その期間中に、私が本書で展開した試論--日本における統 一国家の出現と大和朝廷の創始が、東北アジアの夫余系騎馬民族 の辰王朝によって、四世紀末ないし五世紀前半ごろに達成された という推論が、予期しないいろいろな新資料の発見によって、い よいよ全面的に実証される段階に立つことになった。このことは 私にとって予想外かつ望外の快事と言うべきものである。』
では、江上説=騎馬民族は来た!の論拠となる江上氏の主張する証拠を紹介してみたいと思います!
第一の証拠 辰王(=崇神天皇)の南部朝鮮から北九州への渡来・侵攻の証拠
南部朝鮮では、福泉洞古墳群や、高霊市池山洞古墳群などで4世紀末ないし5世紀初頭の古墳が多数群在して発見された。 そして、ここから鉄製の甲冑、馬具、馬面、金銅の冠、鉄製の刀剣・矛・鏃などの武器、農具・工具や、青銅の七頭鈴など、豊富な副葬品が発掘。しかもこれらと同じ石蓋墓・副葬品をもつ古墳が、かつて加羅諸国があった範囲から盛んに発見されている。こうした出土遺物や墳墓の密集度などから、加羅が南部朝鮮の中でも、最も有力な騎馬民族集団の大根拠地であったと認められる。すなわち東北アジアの夫余系の騎馬民族の辰王朝が、加羅を拠点として日本列島への征服活動を始めた重要な論点の一つが実証された。
また福岡県の各地、とくに福岡市老司、旧甘木市(現朝倉市)池の上の両古墳でも実証された。そこでは加羅の石蓋墓とその副葬品とすべての点でほとんど区別できないほどの古墳群が見られ、さらに伽耶式土器が多数出土している。
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第二の証拠 稲荷山古墳の鉄剣に金象嵌された銘文
稲荷山の鉄剣は 1968年、埼玉県行田市稲荷山古墳 から出土した。10年後の1978年、奈良県の元興寺文化財研究所で保存処理をしているときに、所員がサビの下にキラリと光るものを見つけ、X線写真をとってみたところ、金象嵌の銘文が姿を現した。
しかも驚くことに中国や朝鮮でも出土していない115文字もの大量の文字が刻まれており、且つ、5世紀の生の資料が発見されたのである。さらにその内容も古代史の基準点となるような貴重なものであった。
辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(表)
其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(裏)
内容は、「オワケ臣の職を辞するときの記念に王家へ仕えた先祖のことを記して、この剣を作らせた。」と刻んであった。
しかも従来、その内容に疑義のあった「記紀」の記述と鉄剣の記述が一致。記紀の記述は応神天皇や仁徳天皇(それぞれ在位は、40年と86年) までと、倭の五王に擬せられる履中、反正、允恭、安康天皇(それぞれ在位、5年、4年、41年、3年)以降とは、その真実性においてかなり異なることは判っていたが、この鉄剣の銘文発見によって事実だということが実証された。
すなわち、456年から479年に在位した天皇は雄略天皇で、日本書紀の名は「大泊瀬の幼武(ワカタケル)」であり、古事記には「大長谷の若建(ワカタケル)」とあり、鉄剣の、471年に在位した「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」とピッタリ一致したのである。
この鉄剣の銘文の判読により、熊本県江田船山古墳から出土した鉄刀銘の不明の文字もワカタケルと読めることが確実となり、5世紀後半のヤマト王権の支配力が関東にも、九州にも、すなわち列島の大半に及んでいたことが確実になった。さらに稲荷山鉄剣の最も重要な事柄は、系譜そのものの書き方、在り方にある。 この系譜のように、住所・本貫( 出身地)については一言も触れず、すべて親から子への名前の連続による単純な男系の系譜を示すものは、騎馬民族のあいだにのみ行われた系譜の様式である。
また、彼ら一族を歴代近衛兵の隊長、大膳職の長などに任用して、天皇の身辺・身体の保護を一任したのは、ユーラシアの遊牧騎馬民族のあいだに広くみられる君主と杖刀人、盃捧持者との特別親縁な関係とまったく同じである。
すなわち、天皇家もヲワケ一族と同体不離な関係にあった騎馬民族であることが傍証。
第三の証拠 高松塚の彩色壁画
高松塚古墳は、奈良県高市郡明日香村で昭和47年3月21日、我が国初めての極彩色の壁画古墳として発見された。7世紀末から8世紀初め(に築造された古墳であり、石室内部に星辰(図,日月像及び四神図、人物群像が描かれた壁画古墳。
この彩色壁画は明らか朝鮮の壁画墳の様式を伝えるものだが、「四神図」と「宮廷女官の行列図」が同時に描かれているという異例のものだ。 朝鮮の壁画は中国北朝時代にあたる、高句麗の壁画には四神すなわち青龍・白虎・朱雀・玄武が描かれており、 中国の唐時代にあたる、朝鮮の壁画には四神に代わって、唐王朝で行われたような宮廷の行事や人物(例えば唐風の服装をした女官の行列)の絵画が描かれた。ところが高松塚の壁画は、高句麗風の「四神図」と朝鮮風の衣服や髪型をした「朝鮮風女官の行列図」が同時に描かれるという特異なものである。大和朝廷では、大化の改新(646年)以後、唐の冠位の制を採用して、官吏が中国風の服装を着用することに決めているのに、“宮廷”では、それ以前に聖徳太子のときに定められた朝鮮の(=辰国風)冠位の制による朝鮮服ないし辰国風服飾の着用を、大化の改新以後も継続していたことを明示する。
すなわち自分たち天皇家の出自は、南部朝鮮を全体的に支配した騎馬民族の辰王国だ、という認識があったに相違なく、これは騎馬民族征服説の証明である。
第四の証拠 中国に残された資料「夫余隆の墓誌銘」
「夫余隆の墓誌銘」という資料の
「公、諱(いみな)は隆、字(あざな)も隆、百済辰朝の人なり」
に注目し、
夫余---辰王朝---日本天皇家
夫余---辰王朝---百済王家
という並列した系統関係も明らかになったという、第4の証拠を提示。
<以下本人による座談会からの引用>
(随使)裵世清の紀行では奈良の飛鳥の都のことを「秦王国」と言っており、その国名は倭国王の出自が三韓時代の南部朝鮮半島の大半を支配したという辰王朝にあったことを示唆しています。というのは、倭国での「秦」の字は中国側の記録ではすべて「辰」字で表されており、そのことは倭の五王の上表で三韓の中の辰韓が例外なく秦韓と記されている事情からも明らかです。
したがって、倭国王の都した大和の国を「秦王国」というのは、「辰王国」と解するのが至当であって、倭国王が辰王朝から出自したところからその名を得たものに相違ないのです。百済の夫余隆も辰朝の出なりと言っているので、同じ辰王家から出た倭国王の天皇家が、辰王の国(国都)として飛鳥時代まで伝えられていても不思議はないでしょう。百済王家が滅びるときまで辰(王)朝と伝えられているのに相応じるものです。このようにして、先に掲げた百済王関係(夫余隆)と、倭国王関係がぴったりと並列し、三韓時代の辰王家を共通にしたものとして結びつきますが、それが二つに分かれて、一つは元の馬韓が百済に統一され、そこにずっと居座って百済の(夫)余王家になったのに対し、他方は加羅(任那)に遷って日本列島の征服に乗り出し、まず対馬・壱岐・筑紫などを占領し、さらに数代の後、畿内の河内・摂津に都を遷して倭王となり、最後に大和に入って、そこの土着の豪族と合作して大和朝廷を創始したのですが、その後も倭国は終始百済と緊密な関係を保っており、このことも同じ王朝の分岐したものとして、初めてよく理解できるのです。
以上、江上氏の掲げる主要な証拠の紹介でした
これからは江上氏の渡来説をより深く考察していき、江上説反論派の代表ともいえる佐原真氏の「騎馬民族は来なかった!」説や、知られざる騎馬民族の文化についてもご紹介して行きたいと思いますので、おたのしみに!
<参考引用させて頂いた書籍・サイト>
『騎馬民族国家』 江上波夫著 中公新書
『江上波夫の日本古代史』 江上波夫著 大巧社
『騎馬民族は来た!?来ない!?』 江上波夫・佐原真
騎馬民族は日本を征服したか?http://inoues.net/mystery/kibaminzoku.html
日本人の起源http://www.geocities.jp/ikoh12/index.html
- by kasahara
- at 23:59






comments
>第一の証拠 辰王(=崇神天皇)の南部朝鮮から北九州への渡来・侵攻の証拠
として、
>南部朝鮮では、福泉洞古墳群や、高霊市池山洞古墳群などで4世紀末ないし5世紀初頭の古墳が多数群在して発見された。
が挙げられていますが、
辰王(=崇神天皇)が北九州に渡来したのは4世紀はじめとされているので、「4世紀末ないし5世紀初頭の古墳」では証拠にならないのではないでしょうか。約100年の差があります。
岡さん、コメントありがとうございます!
おっしゃるとおり、時代観が1世紀ずれていることに加え、墓に葬られた首長が、とても辰王系の人とは言えず、むしろ列島古来の血筋の持ち主の可能性が高いなど、江上氏のこの主張には無理があるとの反論は多いですね。
そのあたりも踏まえて、このシリーズで検証していけたらと思います!