2008年11月16日
外圧状況から見る日本婚姻史 ~群婚の崩壊~
前回、縄文時代では小さな自分達だけの族内婚が、集団が分裂拡大する中で、周囲の集団との和協の為に、族外婚に移行するのを見てきました。 「外圧状況から見る日本婚姻史1」
さて今回は、「日本婚姻史4 群婚の崩壊」の項を追求してみたいと思います。
時代は、
縄文時代から
水田耕作
が普及する
弥生時代(前3世紀~3世紀、~大和時代に繋がる)の婚姻制の変化です。
弥生時代は、弥生時代の続きで(前3世紀~3世紀、~大和時代に繋がる)、ヤマト女王国の大和時代に繋がる時代です。
縄文から続く弥生時代とは、どのような時代だったのでしょうか

唐古・鍵遺跡(からこ・かぎ・いせき)は奈良盆地中央部、標高約48メートル前後の沖積地、奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵に立地する弥生時代の環濠集落遺跡。
現在知られている遺跡面積は約30万平方メートル。規模の大きさのみならず、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見され、話題となった。
※弥生末期の洪水後に環濠再掘削が行われ、環濠帯の広さも最大規模となる。集落南部で青銅器の製作。
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紀元前3世紀:自然物採集 →水田農耕が始る
紀元前2世紀:漢の武帝の時代、朝鮮は楽浪郡など4群があり日本(100余国)にも接触
3世紀 :「ヤマト女王国」
約600年の弥生時代では稲作が始まリ、大陸では漢の時代・朝鮮は楽浪郡など日本とも接触が発生していた。幾つもの大きな集団が発生して、遂には統合されたヤマト女王国が出来る。
外圧などの変化はどうだったのでしょうか
生産様式が変化 自然物採取 → 農耕段階へ
社会関係が変化 氏族集団 → 部族連合(氏族の集合体)が100余
弥生初期の婚姻制は、ある集団が相手の集団の男女と神前で集団で交じ合うと言う、族外婚(クナド婚)でしたが、その中に「神前婚約」が発生します。
婚姻様式も変化 神前集団婚 → 神前婚約(妻問婚形態の個別婚)の発生
(クナド婚)
一部に発生した神前婚約(妻問婚形態の個別婚)が、少しづつ普及していくのですが、群婚原理を並存させながらの拡大です。つまり、男が女に通うと、その女の姉妹も連帯的に副妻となると言う文化を引っ張リ続けるのです。
ところで、弥生時代の婚姻様式を変化させた外圧の変化は何か?
つまり、神前婚約(妻問婚形態の個別婚)が発生させる原因は、何でしょうか?
集団が大きくなっていく過程での、集団をまとめることが最大課題でしょうが、それと婚姻が直接的に繋がるのでしょうか?
一方で、弥生人は大陸人だったので、侵略者?の祖国文化である婚姻制(個別婚)を、時の日本に注ぎ込んだと言う意見もあります。確かに、その可能性は大いにあります。
一方で、日本では縄文人の集団婚文化(原始共同体における共食共婚の連帯性)が非常に強く、庶民では昭和初期の田舎まで残存するのです。
一方的な侵略による文化の更新ではなくて、時の集団(縄文人)が個別婚を積極的に受け入れ融合したのだと思われます。そのあたりの必然性をもう少し明快に理解したいところです。
次回の、「妻問婚~大和時代~」にて、再考してみたいと思います。
- by koukei
- at 15:12



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