【騎馬民族征服説】の江上波夫氏は持論についてこうも語っています。
「私は、前期古墳文化人なる倭人が、自主的な立場で、騎馬民族的大陸北方文化を受け入れて、その農耕民族的文化を変質させたのではなく、大陸から朝鮮半島を経由し直接日本に侵入し、倭人を征服・支配したある有力な騎馬民族があり、その征服民族が、以上のような大陸北方系文化複合体をみずから帯同してきて、日本に普及させたと解釈する方が、より自然であろうと考えるのである。」
ただ、江上氏のいう騎馬民族的征服・支配のイメージとは、私たちが、騎馬民族ときいてイメージする圧倒的武力・機動力を行使して攻め込むような攻撃的・戦闘的な騎馬民族とは大きく異なり、順応的・同化的かつ頭脳的に征服戦略を用いる騎馬民族独自の方法論を意味しているようです。
前回は江上氏の掲げた物証としての根拠をご紹介しましたが、今回は文化的側面・民族的気質からの根拠のご紹介です 😛
※図版は有名なチンギス・ハーン
では、ポチっとお願いします♪ ↓ by笠
[1]
実際に中国に幾度も渡り戦前・戦後にかけてモンゴル(蒙古)の遊牧民の生活実態をつぶさに実感・観察・研究しつづけた江上波夫氏。そのモンゴルで彼が直感した、日本騎馬民族征服説のバックボーンとなるモンゴルの遊牧民族・騎馬民族の文化・気質とは何か?
あまり知られていなかった文化的側面を氏の著作の中から抜粋・要約してご紹介します☆
・騎馬民族とは馬に乗るか・乗らないか、馬を持っているか・いないかというよりも生き方である。
・騎馬民族の根底は遊牧である。 遊牧の生きかたというのは環境と家畜しかない。
・だから逆に人間の頭を働かせる事に気付いた。動いてそこにあるものに巧みに吸収・同化する。それが騎馬民族。
★遊牧民の自然観
遊牧民にとって草原はみんなのものである。遊牧民は乾草を作らない・草を刈らない。そもそも土地の所有と言う概念がない。したがって草を独り占めして溜め込むことはしない。その対価として、彼らは十年に一度くらいは家畜の大半を失うような危機に晒されるが、決して自然に逆らわない。したがって、家畜の虚勢もしない。
★遊牧民の生産様式は自給自足
誤認されているようだが、本来遊牧民は農耕民との接触・交換なしでも生きていける。遊牧地帯で買うものと言えばせいぜい布だけ。(1930年代当時)以前はすべてフエルト=羊や山羊の毛をプレスしたものだった。食べ物は肉・乳製品、服飾は衣服・帽子・靴・敷物そして家の屋根・壁すべてがフエルト製。それも、水をかけて踏むだけであっという間にできる。
酒も牛乳・馬乳からできる。且つ古くから彼らは金属を作る技術も持っている。なんと自前で金属製品を作りだせる。燃料は牛糞。乾燥した牛糞牛車1台で半年暮らせるし、牛糞はガス状の青い炎で火力が強く鉄も溶かせる。
◎江上氏は遊牧民族の特性を、土地所有の概念を持たないが故の、環境への順応性と知恵による適応力と捉えています。
★騎馬民族支配の真髄は、頭を使った間接支配にある
遊牧民族は家畜以外に何もっていない。しかし、頭は持っている。人間の本質は頭にある。いくら資源があったって頭がなければダメ。その頭の働きに役立つのが情報と知識と判断力。それを、初めから知っていたのが遊牧民なのだ。
その思考を遊牧という家畜との生活から学んだ。家畜があれば草原がある限りどこにでも住める。しかし、その家畜をどうしたらいいか?が問題となる。そこで遊牧民であるうちは自然の中に居た動物を自然な状態で飼うことに徹した。(EX:本来の遊牧民族は虚勢はしない)
騎馬民族と化して以降、農耕地帯に入り家畜を飼うようになるとそこでのやり方に順応する。自分達は王侯貴族的になるだけで、百姓になるわけじゃない。支配者になったら戦争はもういらないわけで、戦争はやめたといえばいい。あとは、騎馬民族の格好だけ装っていればいい。
そういう流儀でやっていくわけ。
農耕地帯に行ったらそこの王侯貴族のように土着して、そこの文化を取り入れて、そこの人間になればいいんだ。何人も奥さんを貰って自分の仲間を増やす。自分の一族を増やす。三代目には血も言葉もそこの人間になっちゃう。そしてそれが転々と移動していくわけ。
父方のほうは一貫していても、母方のほうは何本にもなる。いろんな血もはいる。モンゴルの諺に「骨は父方から、肉は母方から貰う」とあるように。だから、外交も政治も学問もなんでもできるようになり、何代もやっているとみんな要領を覚えちゃう。彼らにはそういう伝統がある。
★遊牧民が騎馬民族になる時~熟柿が落ちるのを待つ~
掠奪を始めた遊牧民は最初に農耕民を相手に進攻・掠奪を繰り返した。→ しかし、相手が防衛線をはり防砦都市・長城等で対抗。→ その後、脅し・揺すり・タカリ・恐喝に戦略変更。持ってこないと掠奪するぞと脅して貢納・交易させる。半分恐喝の交易開始。→ しかし、ほしい物をたくさんくれないとまたかっぱらう。→ 長城内に侵入し勝手に人畜をかすめかっぱらう事を繰り返す。
しかし、その内に彼らは気付く。農耕地帯は文明地帯で立派な都市もあるけれど、必ずしも内部秩序が整っていないところもあり、不平分子もいる。兵力はあるけれども騎馬戦術で短期決戦なら勝てそう。一対一なら必ず勝てるが、相手は大勢だから兵を集中して長期戦になれば不利。⇒どうする?
以下、江上波夫氏が語る騎馬民族征服王朝のレシピです。
①長城地帯の交易場(関市)の外側にモデル都市=城市を作る(自分達が住む町ではなく、政治的亡命者・手配中の犯罪人・失業者等を収容)
②そこでは税金を本土より少なく、半分とか4分の1に減らし全ての人材に職を与える。(自分達にできない難しいことも彼らがそこでやってくれる)
③知識人や有能な人材を優遇。宗教も自由・平等にする。
④外交的にも文化的にも攻勢になり情報センター化する。
⑤軍隊もそこの母胎が騎馬民族であることを伏せ、傭兵化する。
⑥こうなると、農耕民族も怖がらなくなって平和共存できるようになると考える。
⑦こうして、モデル都市が遊牧騎馬民の戦士階級と在地の地主を貴族階級とする、新しい都市国家=征服王朝へと発展。
⑧つぎに、農耕都市文明地帯の中心部に近い場所に本拠を一つ作る。
⑨同じことをする。
⑩次にまた中心部に近いところへ動く。
⑪同じ事をする。
⑫最後には都へたどり着く。
⑬征服王朝国家の完成。
それまでを悠々として鎮撫しながら行なっていく。
こんな感じで、もとはわずかな人間だが入っていく時はみんなついていっちゃう。
例えば鮮卑(紀元前4世紀~後6世紀・モンゴルの遊牧民族)
戦をせずに勝つ。中国の歴史の3分の1くらいはこのような征服王朝。
このやり方は伝統的です。チンギス・ハーンもそう。ダリウス王のペルシア帝国であれ、カニシカ王のクシャンであれ、カリフ時代のアラブであれ、アクバル帝のムガールであれ、世界帝国をつくったのはほとんどみんな遊牧騎馬民族ですよ。
しかも、はじめはわずか一握りの仲間なんですよ。突厥碑文に書いているように「われわれは最初7人だった。そして70人になった、そして1000人になった。一代にして1万の兵を持つようになった、その次には10万になった。そして大きな国ができた」と。
★頭の民俗・騎馬民族型頭脳民族
江上氏は、農耕民族は土地に縛られているため固定的である。騎馬民族は柔軟で、場所にとらわれず好奇心が強い。どんな文化も人材も民族も血も関係なく必要であれば取り込んでいくし、生産様式も変え、民族としてもその土地に溶け込んでいく。残すのは頭を使う事だけ。
それが、頭の民俗・騎馬民族型頭脳民族の本質なのだといいます。この気質が、農耕民族だけでは説明できない現代日本人の民族的気質と初期日本の統合過程に大きく現れているのだといいます。
縄文的受け入れ体質といわれている日本人。それに対して、あえて言うなら柔軟な溶け込み体質の騎馬民族。日本にみられるこの気質の二重性・融合が、江上氏の騎馬民族征服説・騎馬民族は来た!の大きなバックボーンになっているようです 😀
<参考書籍>
『騎馬民族国家』 江上波夫著 中公新書
『江上波夫の日本古代史』 江上波夫著 大巧社
『騎馬民族は来た!?来ない!?』 江上波夫・佐原真