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「森林の思考」と結びついた「砂漠の思考」

新年あけましておめでとうございます
昨年来、市場原理から共認原理への大転換が、誰の目にもあきらかになりつつあります。
それと前後するように「日本人とは何か?」という人々の探索が強まり、歴史収束というような潮流も生まれています。
そこで期待されていることとは、日本人の多様性と統一性(統合性)の解明といったあたりではないでしょうか?
新年を迎えるにあたり、今回は、日本人・日本民族の多様性、統一性がどのように形成されてきたのかを考えてみたいと思います。
おつきあい願える方は応援よろしくお願いします 🙄
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江上波夫氏 「提言・日本人の多様性と統一性」 [2] 【引用・抜粋】

日本列島は初めから小世界的な存在でした。
外から侵されることは、すでに縄文時代からなかった。
さらに海の幸、山の幸が豊かであって、縄文期から生活が比較的安定していた。
稲作が入ってきてからは、なおさら豊かになった。
物資の流通もわりあいによくて、海上を通じてそれぞれの土地の特産物の交易が早くから行われていた。これも統一性を生む条件の一つになっています。

また自然美、四季の変化が日本人の民族感覚を生み出すうえに大きな役割を果たしました。
そういう自然に対する感覚が精神的な部分に強く働き、人間観や宇宙観がつくり上げられてきた。
これは狩猟・漁撈民に著しい傾向だが、農耕民にとっても自然界を通しての精神形成は強いといえる。
鈴木秀夫さんが言われる「森林の思考」というのは、森の住人は遠くを見ることができず、ごく周辺の自然がその思想を決めてきたということです。
一方「砂漠の思考」の方は、砂漠というのはどこまでも見通せるから鳥瞰的なものの見方が発達し、広大な自然のなかで自己認識するようになるということです。
たしかに森林が多く、海に囲まれた狭い日本の自然環境のなかでは、あるものに帰一したがる傾向や精神文化が養われやすいと思われます。
この傾向は中央集権的なものをわりあいに早くから生みだす基になりました。
しかし、奴国や伊都国の場合には、中国との関係において出てきました。
その後も、外国のどこかとの関係における権威主義によって装われた「中央」でした。
そういう形での中央集権ができ上がってくる。これは決して強大な軍事力や政治力をもっていたわけではない。
一種の象徴的な中央集権制にすぎないのですが、非常に早くからでき上がり、ずっと続いてきた。
これが日本の政治的統一性を特徴づけてきたのではないかと思います。
それに対して軍事的支配体制は別にありました。
先にも述べたように武人、武家が、象徴的中央集権制を支えるものとして、あるいは、その周辺を固め実際に政治を行う体制としてつねに存在してきた。
この伝統が江戸時代まで続く。象徴的なものと実力的な存在とが併存する形が早くからできて、ずっと続いていくのです。

その一方で流動的な階級性というものがあります。
これはむしろ騎馬民族的なものであって、純農耕社会だと大地主や豪族は一般庶民と隔絶した存在になってしまいます。
日本の場合には、武家はつねに兵を養っていなければいけないので農民を自分の周辺に抱え、その上に立って戦士として活動していた。
人的資源も経済資源も武家そのものの存在を確立させるためのものでしたから、武家支配のところでは農民との間に隔絶がない。
武人の活動がそういう人たちにじかにつながると同時に、下の要求も武人にじかに反映する。
農民であっても気の利いたのは武人に取り立てられ出世するチャンスもあるし、武人が農民のなかに入って豪農になる可能性もあった。
このように比較的流動的な社会が上下の隔絶を決定的なものにしなかった。
文化面においても、上の者が下に沈み、下の者が上がってくる現象も起こり、日本では早くから識字を初めとする一般教育がかなり普及していたことなども、その表れだとみることができます。

それに父系と母系との関係があります。
日本の場合は母系社会とか父系社会とか一方に決まってしまわず、だいたいにおいて双系的な社会構造です。
東南アジアの農耕民族では一般に双系制社会で、北・中央アジアの牧畜騎馬民族では父系制社会ですが、日本では、外来の騎馬民族も何代かたてば双系制になる傾向があった。
要するに日本では、象徴的な中央集権制としての公家と、実力的支配体制としての武家の存在、農耕民型と牧畜・騎馬民型が社会の根底にあって、その上に出来上がっている流動的な階級性と、双系制の社会構造、それらが、いずれも新しいものを取り入れることを可能にするが、それがもとからあるものを排除したり、極端に、あるいは性急に変化してしまうことをストップする役割をもっていたのではないか。
社会を硬化し、停滞した状態から更生させるのに革命的な形でなく、流動的、漸進的な形で化成する役割をもったのではないか。

もう一つは、日本は縄文時代から、いわゆるシャマニズム的な世界観に立っていました。シャマニズムには北方のものと南方のものとがあり、北方シャマニズムは狩猟・牧畜民族ないし、牧畜・騎馬民族のもので一神教志向ですが、東南アジアのシャマニズムは農耕民族のもので、精霊信仰的、万神教的なものです。
日本のシャマニズムはその両方が、ごちゃごちゃに結合してできており、その日本的シャマニズムが他から入ってくるいろいろな宗教や思想を取り入れやすいものにしながら、日本の伝統的な文化や、全体の組織をぶちこわすような要素は骨抜きにしてしまう性能をもっていたのではないか。
日本のシャマニズムは騎馬民族のような軍事活動を中心とする祭祀ともつながるし、農耕民族の農耕儀礼的祭祀ともつながる。
道教が入ってくればそれとも結びつくし、仏教とも結びついた。しかし、みずからのシャマニズム的な要素を失うことはなかったのです。
いわゆる神道として、現在まで続いてきた。

そして日本では一般に指導層が高い文化を志向する。
騎馬民族は自己が文化をもっていないので高い文化に憧れ、取り入れようとする気持ちが非常に強いのですが、大和朝廷も渡来人の高い文化を重く用いた。
しかも指導層が、それを自分たちだけで独占せずに、庶民の間にも大いに広め、受け入れさせる態度をとった。
庶民の側でも文化創造に積極的に参加していく。
こういう姿勢が伝統的に見られるのです。
騎馬民族には農、工、商の人間が容易に同調できる傾向があります。
騎馬民族が支配したところでは、そういう傾向がきわめて顕著に出ています。
中国でも周から戦国時代にかけての文化には、そうした色彩が非常に強かったようです。というのは騎馬民族は「砂漠の思考」をもっている。ユニバーサルなもの、合理的なもの、実用的なものを志向する。
これは農民たちにもわかるし、他の人たちも取り入れることができる。
そういう意味で庶民が積極的に参加していき、それが新しい文化の創造を有力に支えたと思われます。

こうして指導層が高文化を志向し、しかも砂漠の民の意識で取り入れると、ある意味で世界性をもつようになり、それが統一性をさらに確固たるものにしていきます。

日本人の歴史を探るとき、騎馬民族による侵略→支配・被支配という対立構造で考える限り、今後につながる可能性はみつかりません。
可能性は、塗り重ねの構造にあります。
私たちにも騎馬民族の血が流れているかもしれません。
しかし、それすらも融合してきたのが日本人の縄文体質であり、それこそが、いま求められているのではないでしょうか?

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