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中山太郎の「日本婚姻史」から~共同婚~☆6☆いろんな結婚式がある!

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こんにちは。暖かくなったり寒くなったりしながらも、だんだん春が近づいてきていますね
 前回 [1]の「神の名による配偶者の選定」の風流な事例とはちょっと趣の違う、ちょっとびっくり な事例をご紹介します。
 いつもの応援も、よろしくお願いします
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★常識では考えられぬ極端な神判成婚
若狭の国向笠
 毎年正月三日の夜に、配偶定めの鬼ごという遊びが行なわれ、若い男女はこれを楽しみにしている。会場は普通の民家を選定し、鬼の順番は籤引で決める。灯火を消して一同が静かにしている中を、手拭で目隠しをされた鬼が手探りして捕まえる。誰かが掴まると、灯火を点けて二人の顔を見合わせ皆が笑いこける。それが平素から思い合っている男女であると、焼餅半分面白半分に二人を倒して上から押さえ付けたりなどする。しかしこの遊びの目的は娯楽であって、必ずしも捕まえた者と捕まえられた者が後に縁組するという訳ではないそうだ。
『しかしながら私に言わせると、かかる遊戯が突然に然も単なる娯楽として発明されるべき筈がないと信ずるので、その古い世相に還元すれば捕らえた者と捕らえられた者とは、即ち高媒の神の許した宿縁であって、必ず夫婦として生活せねばならぬように条件付けられてあったのに違いない。』
陸中の村落
 正月に『遊びコ』というのがあり、正月三日間を戸主は戸主同士、長男は長男同士、主婦は主婦、嫁は嫁、寡婦は寡婦と異分子を少しも交えず、同じ資格の者だけが一段となって遊び暮らす。そこで、処女の遊びコへ息子の遊びコが出かけて嫁探しをする習慣が今に存している。
 『これなども古くは高媒による妻覓ぎの土俗であったことは言うまでもなく、それが遊戯と化したのは後世のことに属しているのである。全体、国語の『あそび』に漢字の『遊』を箝当したために、あそびの古義が全く忘れられてしまって、今では単なる遊戯とか道楽とかいう意味にのみ用いられているが、これは決して国語のあそびの内容に相応しているものではない。我国のあそびは即ち神事であって、神事を離れたあそびというものは在り得なかったのである。従って遊びの名で伝えられているからと言って、それが必ず娯楽を目的としたものであるとするのは速断である。この若狭の鬼ごなども、その最初は神の名で行なわれた妻覓ぎであって、場所も古くは神社であったろうと考えられる。この考えは次に挙げる土俗を参照するとき更に一段と有力になるのである』
近江の国熊野
 山間の寒村で昔から他村と通婚せぬことになっている。年一回期日を定めて村内の適婚令に達した男女を氏神熊野社の拝殿に集め、夜分に神官が祝詞を奏し神灯を消し、暗黒中を数組の男女を模索せしめ落ち合った者を夫婦とする掟となっている。

 性がみんなの共有物であった時代には、婚姻は神様が決めてもみんなが決めても、つまり誰が決めても同じことで、相手を受け入れるのが当たり前のこと。背景には、性や集団への全的な肯定視=絶対的な安心感があったんだと思います。また、遊び=娯楽ではなく、旧くはあそび=神事であったという筆者の考察もなるほど ですね。
 では、次の事例です。

★神人一如の思想に基ける神婚の祭儀
近江の国多賀神社
 四月の例祭には頭人という者が指定され、その頭人が大幣(おおぬさ)を捧げて社参すると、神官が社殿から同じような大幣を捧げてきて幣合せの式を挙げる。社記によるとこの式は諾冊二尊の陰陽和合のために行なうとあるから、それが神婚祭の象徴であることは明白である。
下野国の天王祭(祇園会)
 多賀神社と全く同じ神事があり、男天王の御幣を女天王の御幣の上に載せ、神官が上から三度押さえて式が終わる。
大和の国磯城郡纒向村江包の素尊神社と同郡織田村大西の稲田媛神社
 毎年旧正月十日に網掛の神事というものが行なわれる。素尊神社では田一反分の藁で男性器の形を作り、稲田社でも同じほどの藁で女性器をこしらえ、神官及び氏子が立ち会って神婚の儀式を挙げる。
越前の国沓見
 信露貴神社(男宮)と久豆彌神社(女宮)との田植祭が行われ、古来厳重なる頭屋の制度があり、本殿にて田植式があり、終わると男宮の神輿が女宮に渡御し、更に馬場先で三々九度の神事が執行される。
『これらの神々が霊界にいます信仰の対象でありながら、なおもわれわれ人間と殆どえらぶところなき婚姻の儀式を行って、しかも祭典の要素とすることは、我国の神々の成立を知る上に重大なる手懸りとなるのであって、即ち神も昔は人であったという『神人一如』の思想に由来しているのである。やがてこの思想は二つに分化して、第一は氏神の神婚祭の行われぬ以前にその氏子の結婚することを許さぬ禁忌となり、第二は神婚祭の折りに氏子が祭神の御仲持と称して結婚式を挙げる土俗を生むようになったのである。
 前者の例としては、肥後の国の阿蘇神社の姫神迎えの神事を挙げることができる。毎年旧二月卯の日に田作祭を行うが、この祭儀の終わらぬうちに農事を起こすことは禁じられ、また神婚の祭儀が終わらぬうちは士女の婚姻を禁止している。
 後者の例としては、駿河の沼津市の山王神社では、恒例祭の日には必ず氏子中で一組の結婚式を挙げる。これを祭神の御仲持ちとするのが古例である。この神々の御仲持ち―即ち神判成婚の思想は、一転して『神いさめ』の意に解されて神々のお取持となり、再転して雑魚寝の土俗にまで発展したのであるが、それについては雑魚寝の章に詳説する。』

 網掛の神事は、現在も行なわれています。リンク [3](写真もあります )性を隠したり秘めたりするのではなく、そのストレートさにびっくりなお祭りですね :blush:
 最後に、現代でもよく行なわれている、神前結婚式についてのお話です。意外と新しいものなんです

★神前の結婚式は明治期の発明でない
 我が国では、人が男女の縁を結ぶと考える以前に、神が夫婦の縁を定めてくれるものだと信じた時代がある。それが高媒の俗信であり、神判成婚の思想である。その結果、古くは神そのものが、近くは神の代理の者が、婚礼の式場に臨んで神聖を保証し将来を祝福したものであって、神前結婚は決して明治期における日比谷大神宮の発明でも何でもなかったのである。(引用者注:明治33年7月21日に日比谷大神宮(現在の東京大神宮)が神前結婚式をPRし始め、この日が現在でも「神前結婚記念日」となっている。それまでは結婚式は家で行うものであった。)
 太古には、神主は文字通り神そのものであったが、中世には神の代理者となり、後世では神と人との仲介者のようになった。これは神というものの内容の変化を示しているものである。
近江の国今津村
 媒介人から申し込みがあると、新婦となる者を新郎の家に四五日間引取り、当人の性行を調べた上で改めて十日ほど経て縁談を進め、それが成立すると男女を産土(うぶすな)社に参詣させ、神官から神命を受け、神前に対座合掌させた後に、新夫婦の父母に賜盃するのが普通で、さらに自宅で式を挙げることになっていた。
信濃の国三井村付近
 婚儀の際には必ず氏神社の神官の列席を乞い、取り結びの式を行った。新婦が輿入れの直前に産土社に参拝し、または結婚の翌日に新郎の産土社へ参詣するのは、神前挙式の簡略化とも見ることができる。
(引用者注:産土神(うぶすなかみ、うぶしなのかみ、うぶのかみ)は生まれた土地を領有、守護する神。あるいは本貫(先祖の発祥地)に祀られている神。単に産土とも言う。日本人の郷土意識と強く結びついた信仰。もとは氏神や鎮守神とは別の性格を持っていたものと思われるが、近世以降は同一視される場合も少なくない。以上Wikipediaより。)

 神の前で誓いをする(=契約をかわす)というキリスト教の結婚式とは違い、神様同士が結婚してしまうのが、日本の神前結婚式のもとだったんです!大きな違いですね。
次回は、ちょっとどころかかなりびっくり な事例をお届けする予定です。今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございます

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