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「民法」って何?(その成立過程)

Posted By yama33 On 2009年4月5日 @ 10:24 PM In E 8 日本 | 4 Comments

「知られざる人類婚姻史と共同体社会」
このタイトルが示すように、このブログでは世界の様々な共同体と婚姻史、婚姻形態を調べてきました。
そのなかで「今の婚姻様式が当然だと思ったら大間違い!」と言う事がだんだん分かってきました!
例えば私達の住む「日本」一つをとっても、歴史を振り返ってみると様々な婚姻形態があったことに驚かされます。そしてもう一つの気付きは婚姻形態がその時その時の外圧や生産形態によって柔軟に変化してきたと言う事実です。
婚姻制度も、集団が外圧に適応して行く為の規範、という見方も出来そうです。
ところが明治時時代に入り、こうして柔軟に外圧に適応してきた婚姻形態が遂に法制化されます。
今の私達の生活にも繋がっている、 「民法」の成立です。
今日は現代の私達の婚姻制度を規定している「民法」の成立過程とその目指していた物を考えてみたいと思います。

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私も今までよく知らなかったのですが、
民法とは大きく二つの柱から成り立っています。
 「財産法」 と  「家族法」  です。
「財産法」 とは大きく言えば私権に対するルール。その中身は「所有」「債権」等です。
そしてもう一つの柱、 「家族法」
この中身は「婚姻」「親子」「相続」を規定しています。
つまり「民法」とは、明治維新から急速に広がる市場化を背景に、万人が私権闘争に参加するルールをしっかり決めようぜ!と言う法律。婚姻や親子関係もこの延長で期待しているのが「民法」、という見方も出来そうです。
最も日本が今の民法に行き着くまでには様々な紆余曲折が有ったようです・・・・

以下、 「ボアソナードと民法成立の嵐」  [1]
さんから抜粋、引用させて頂きました。少し長いですが、民法成立の歴史と抱えていた問題がよく分かります!
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今回は民法という法律の成立や歴史について見てみましょう。
 すでに日本史などを学ばれているならお分かりでしょうが、時代は明治にまでさかのぼります。
 しかも、日本の民法の基礎を作ったのは日本人ではなく外国人だったのです。 
 当時の日本は早く外国(列強)に追いついて一流国に仲間入りするためにいろんなことをしました。立法の作業もそういう意味を含んでいます。もちろん海外との貿易を円滑にするためにも必要でしたけれど、日本は幕末の不平等条約など痛い目にも遭ってきたわけですから法の大切さには身をもって知ったわけです。
 
■当時のフランスと日本
フランスというと王制と共和制を繰り返していましたから一般の人の法に対する意識は日本よりも高く、日本のお上という意識はあまりなかったようです。
(中略)
共和制(民主主義・選挙)ということからフランスは個人主義という考えが広まっていました。この考えは当時の日本にはあまりないものでした。
(中略)
 しかし、不平等条約の改正要求など次第に一般の人の声が強まり、国会を開設しようということになりました。政府としては完全に共和制(民主主義)になるとやりたいように出来ないので、あまり民主化せずに、かつ、外国に日本は国会が出来るほど発展してきたということを見せつけるためにも上手くことを運ぼうとしました。国会が出来るということはルールが必要になってきます。そういう事もあり、この頃はたくさんの法律が作られています。

 明治時代というのは天皇が出てきて始まったようなものですから、天皇は日本で一番大切だったのです。ですから憲法が作られるとしたらやっぱり天皇がトップでないといけないわけです。
憲法制定に関して二つの考えがありました。ひとつはイギリス流の考え方です。これは王の下に議会があるものの、王は一切政治に関して口出ししないというものです。つまり議会が強いのです。
もうひとつはドイツ流の考え方です。イギリス流とは反対に王は強く、議会は弱いという考え方です。イギリス流は大隈重信を中心に、ドィツ流は伊藤博文を中心にまとまっていましたが、天皇第一の日本は王の力を強くしたいのでドイツ流の憲法を制定することにしました。この時の憲法は上のものが偉いという考えを生み、同時に戸主制や家制度の考えを完全に確立しました。
(中略)

■お雇い外国人
(中略)
 ボアソナード(G.E.Boissonade 1825~1910)が来日したのは1873年のことでした。
 ボアソナードは日本に来る前はフランスのパリ大学の教授をしていました。ボアソナードは日本の現状を見て特に拷問などがあることに驚きました。そこで治罪法という法律を政府に提案しました。これはもちろんフランス治罪法を元にして考えられたわけですが、拷問の禁止や証拠法などを定めており、近代的刑事訴訟法といわれています。公布されたのは1880年で、翌1881年に施行されています。
 ボアソナードは日本近代法の父と呼ばれています。なぜなら、民法(民法典)という法律の基礎を築いたからです。民法はさまざまな法律の考え方などの基本になるので、民法がどのように作られるかということの影響はその他の法律、言ってみれば日本の将来に多大な影響を与えます。それは第二次大戦(太平洋戦争)前だけでなく、今日、私たちが民事訴訟などを目にする時にもかつてのボアソナードの意識は生きているのです。


■旧民法・ボアソナード民法
ボアソナードが日本の民法を考えた時、フランス系民法を手本に、個人主義を採用しました。これはそのまま条文に生かされ1890年に公布されました。これを旧民法(ボアソナード民法)といいます。
 公布ですからまだ効力はないわけです。効力を発揮するためには施行しなければなりません。
大日本帝国憲法は1890年施行されました。問題がなさそうに見えた旧民法はここで大きな論争に巻き込まれます。そこには個人主義と家制度(戸主制)、この二つの考え方の違いがありました。

■民法典論争~民法出デテ忠孝亡ブ~
1891年、旧民法公布の次の年に穂積八束(ほづみやつか 1860~1912)という学者(彼は東大教授だった)がこの旧民法に反対する考えを発表しました。それがこの「民法出デテ忠孝亡ブ」という言葉です。つまり旧民法みたいな考えだと日本の美風とされていた親や天皇、立場が上の者にたいする尊敬の気持ちが失われてしまうというものでした。儒教的な考えで、君主(天皇)こそが一番偉いという君主主権説でした。逆に梅謙次郎(うめ けんじろう 1860~1910)という学者はフランス民法の導入を主張し、多くの学者が二つに分かれてまもなく激しい論争になりました。これを民法典論争といいます(民法典論争が本格化したのは1889年から)。
 政府はというと個人主義に反対ですから、日本の現状にふさわしくないとして公布した旧民法の施行を1892年に無期延期してしまいました。
 民法典論争は大学をも巻き込みました。(学校名は現代のもの)
法政大学        中央大学
明治大学     対  早稲田大学
            東京大学 
(旧民法賛成派)   (旧民法反対派)
 民法典論争の結果はというと、反対派が勝利しました。(上の大学で勝った反対派は現代において、司法試験合格者の多い学校となっています。民法典論争の影響かどうかはわかりませんが‥‥。ちなみに法政大学にはボアソナードタワーという研究施設もあるようです。) 

 
 一度公布され無期延期された民法ですが、反対派の勝利により戸主制を重視した新民法(明治民法)に変えられてしまいました(もちろん全て変えられたわけではないですが)。そして、1898年に施行されています。
 ボアソナードは最も力を注いだ旧民法(個人主義)が否定されることに大きく失望しました。そして、1895年に帰国しました。
  ボアソナードが行ったことは旧民法、治罪法の他に、刑法の起草があり、また、井上馨の条約改正案の外国人判事任用を批判し、反対運動を行ったりしました。
(後略) 
以上引用終わり
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こうしてみると、私達が現在「当たり前」と思っている家族制度や婚姻制度も、その成立過程が非常に複雑かつ恣意的だったことが分かります。
歴史を遡って事実を見てみると、「当たり前」と思っていた制度や常識も、実は固定観念に過ぎない、もっと柔軟に考えることが出来るのではないか、そんな可能性が見えてくると思います。

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[1]  「ボアソナードと民法成立の嵐」 : http://www.geocities.co.jp/WallStreet/5831/boasonardo.html 

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