- 共同体社会と人類婚姻史 - http://bbs.jinruisi.net/blog -

言語誕生の前夜

 ネアンデルタール人と現代人、チンパンジーの知能の違いについて、調べようと進化心理学関係の本を幾つか読んでいたのですが、少し遡って、人間の知能を考える上で、欠かせない言語の誕生について考えてみたいと思います。
  
今回は、赤ん坊や聾学校の事例を元に、言語が生まれる前夜の状況について考えて見ます。
言語の誕生と人間の進化について、興味のわいた方は、クリックして、続きへどうぞ。
[1]


主な参考図書は、『この6つのおかげでヒトは進化した―つま先、親指、のど、笑い、涙、キス [2]』チップ・ウォルター著 です。sinka6.jpg
 1990年代、ジョゼフ・ガルシアという研究者はあることに気づいた。聴覚が正常で健康な赤ん坊は、耳の正常な親の元に生まれるよりも、耳が不自由で手話を使っている両親の元に生まれた方が、早い時期から話をしはじめるのである。話と言っても声を使うのではなく、両親と同じように手話で話すことだ。
 ガルシアはその後の研究を通じて、赤ん坊が誰に教わるでもなく手話で、「おなかがすいた、のどが渇いた、おむつが濡れた」と話しはじめること、しかもそれが、口から言葉を発する八ヶ月も前であるのを発見した。つまり、赤ん坊の脳はすでに話ができるほど発達しているのに、まだのどから声が出せないために手を使っているのである。
 私たちがこの時期にしゃべれないのは、知力が足りなくて話す内容をおもいつかないからではない。神経経路や、のど肺や舌が発達していないために言葉を発せられないだけだ。 
 ある母親は、11ヶ月になる息子と手話で話し始めてから家の中がずいぶん静かになったと語る。彼らが黙って手話をしているからではない。息子が苛立って泣くことが減ったためである。それまでは、いくら泣いてもわめいても、自分の思いを判ってもらえないことがあったのだ。よちよち歩きの幼児は、手話を教えるとそれに飛びつくことが多い。自分の世話をしてくれる人に言いたいことがいえないため、いつも欲求不満を抱えているからだ。
 幼い子供が手話というシンボルを使って自分の思いを伝えられるとしたら、ホモ・エレクトス(180万年前ころに登場する真正のホモ属)にも同じ事が出来ただろうか。彼らが生きるか死ぬかの切羽詰まった状況に置かれていたことを考えると、そういう能力を発達させてもおかしくないように思える。 彼らには器用な手とミラーニューロンがあった。人とやりとりするうえで、あるいは現実的な欲求を満たす上で、意志の疎通を図る必要性を感じてもいた。しかも、現代のよちよち歩きの幼児くらいの脳の大きさがある。もっとも、エレクトスに人間の幼児並みの知能があったわけではない。脳構造が幾つかの点で明らかに異なっていた。だが、彼らが世界をどうとらえていたかは、人間の幼児に通じるところがあったかもしれない。それに、どうしてもコミュニケーションをとりたいのに言葉が話せない点も、両者に共通している。
 手振りや手真似が本物の言語へと進化していく過程を、鮮やかに示す事例がある。
 ニカラグア政府とサンディニスタ民族解放戦線との内線は8年間続いた。
 1985年には新政府が樹立され、耳や言葉の不自由な子供を助けるための施策がスタートする。首都のマナグアに二つの聾学校が設立されると、全国から子供たちが続々と集まってきた。
 子供たちは戦乱のために、手話を教えてもらったこともなく、家族や友人とコミュニケーションをとる必要に迫られて、ごく荒削りな手真似を各自が編み出していただけである。しかも、食べる、飲む、寝るといったジェスチャーがせいぜいで、それ以上の込み入った表現はできない。
 あいにく、聾学校の教師たちはあまり役に立たなかった。彼らは生徒に指文字を教えようとした。指文字とは、言語のアルファベットを一文字ずつ指の形で表現する方法である。問題は、子供たちにはアルファベットが何かも、単語が何かも、そもそも言語が何かも全くわからないことだ。口はおろか手で綴ることもできない。 
 それでも子供たちには、どうしても人と意志を通じ合わせたいという強い思いがある。そこで彼らは驚くべきことを始めた。自分たちの手を使って、互いに話をし始めたのである。はじめはそれぞれが家で使っていた素朴な手真似を持ち寄った。次にそれらを土台にして、まったく新しい独自の言語を編み出していった。教師たちはわけがわからないまま、呆気にとられて見ているばかりだ。
 1986年6月、ニカラグア教育省はアメリカ手話の専門家であるジュディ・ケグルを招き、何が起きているのかをつきとめてもらうことにする。
 最初にケグルが訪ねたのは、年長の子供たちが通う中等学校である。子供たちが使っているのは、自分達でこしらえた手真似だけだった。手振りの多くは、単にその動作を真似ただけである。子ども達は家からもちよった手振りで急場をしのいでいる。子供たちの手振りには本当の意味での文法や規則体系が見られないのだ。少なくともその時点ではまだ。
 ケグルは中等学校を訪ねたあと、サン・フーダスにある小学校に向かった。
 少女が学校の中庭で手話をしていて、それは年長の子供たちには見られないリズムとスピードを備えていた。自分なりの手話のルールブックが頭の中にあるのではないか。ケグルはそう考えた。
 やがてわかったのだが、年少の子供たちは年長の子供たちが作った「手振り」を新しい次元にもっていこうとしていた。当時、大学院でケグルの生徒だったアン・センガスは、のちにこうふりかえっている。「言語学者にとっては夢のような状況だった。ビッグバンを目撃しているみたいだった。」 センガスは「サイエンス」誌に発表した論文のなかで、年少の子供たちは概念や者や動作をいくつかの単位に分解し、その個々の単位を手話で表現していた、と説明している。つまりは、本物の言語を作りつつあった。
 ニカラグアの聾学校の子供たちは、今日に至るまでの20年のあいだ、手話表現に絶え間なく磨きをかけてきた。年若い世代が入ってくるたびに、手作りの素朴な手話は改善され、もはや荒削りで不完全な身振りといった面影はない。今では語彙も豊富で、時間や感情、皮肉やユーモアといった、ありとあらゆる概念を表現できる。何より驚くのは、これを子供たちだけの力で成し遂げたことだ。誰かが中心になって計画したわけではない。誰かが椅子に座って文法を書いたり、辞書を作ったりしたわけでもない。研修を実施したものもいなければ、研修を開発したものもいなかった。何とかしてコミュニケーションを図ろうと、子供たちが苦労してやりとりするなかから、ただ自然に言語が生まれていった。
 誰かと意思を通わせたいという、人間ならではの強い思いに突き動かされ、彼らは自分達の力で正真正銘の言語を生みだした。
 ニカラグアの子供たちは、言語がゼロから進化する過程を見せてくれたと言っても過言ではない。同時に、過去をかいま見せてくれたとも言える。私達の祖先もこの子供たちのように、意思を伝えたいというやむにやまれぬ思いを抱えていながら、それを叶えられるだけの声も言語ももたなかった。だが、長い時間をかけて彼らはその方法を見つけた。
 どうやら、考えや気持ちを表現するための基本的なリズムや構文や、さまざまな構成要素は、単語や音節を声にして言うだけの仕組みよりも脳の深いところに根ざしているようだ。人間の精神は何としても情報を共有しようとする。自分の扱える範囲であればどんなものでもいいから、何らかの表現手段を見つけようとする。両親が手話を使っていると赤ん坊が手話で話すように、また言葉の不自由なニカラグアの子供の素晴らしい物語からもわかるように、手は表現手段として好まれるらしい。
 何らかの理由で声の出せない人にとって、手は声帯の代わりになる。ということは、私たちは一言も言葉を発しないうちであっても、コミュニケーションができる仕組みが体に組み込まれているのではないか。だとすれば、ホモ・エレクトスやその子孫たちも、言語をマスターする前に手を使ったコミュニケーションをマスターしていた可能性がある。彼らの祖先が道具や武器を操るのを覚えたのと同じだ。
 「彼らは言いたいこと、表現したいことを明確にもっている。ただ、のどの形に制約があり、脳の構造や神経系もまだ未発達なために、言語を発するのが無理なだけだ。」
 脳が発達しても、のどが発達しないと言葉にはならないのですね。
 霊長類でも(ホモ・エレクトス以降の)人類だけが、のどの位置が下がった為、自由に音声を操れる代わりに、気道と食道が交差し食物が喉に詰まって窒息死の危険を持っています。言語の獲得にはまさに命がけの肉体改造が必要だったのです。
 脳の発達とこれだけ危険を伴う喉の進化が同時に起こったとは考えにくいので、共認機能の発達に伴って、手話では伝えきれない強い思いが、音声を自由に操れるように、危険を冒して、のどの位置を下げるような進化を促したのでしょうね。

[3] [4] [5]