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中山太郎の「日本婚姻史」から~共同婚~☆11☆婿はつらいよ。

trd0901151804004-p1.jpg 前回、かなり悲惨な?婿いじめについてお送りしました。今回も引き続き、お婿さんには可愛そうな内容が続きます 題名の通り、「婿はつらいよ。」です。
つづきを読む前に、今回も応援をよろしくお願いします
           
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画像はこちら [2]からお借りした、新潟県松之山の「婿投げ」の様子です。


 「婿いじめ」は、他村から来た婿や入り婿に対してのものだけでなく、その年に新しく結婚した男に対しても行なわれていたようです。みんなのものだった村の女子を独占することに対しての、制裁ということでしょうか。
 では、前回のつづきを引用します。

★神の名で行なわれたる新婿いじめ
 他村から来た入り婿に比べれば、自村にいる新婿を虐待する程度は、すこぶる寛大ではあるけれども、しかしそれでも相応に辛辣を極めたものである。
 甲斐の国では、正月の道祖神祭に際して新婿いじめの土俗が、ほとんど国内一般に行なわれていたので、従ってその方法や手段にも種々なる奇抜なものが案出実行されていたが、ここには代表的のものを一二だけ挙げるとする。

甲斐の国東八代郡一ノ宮村田中
 江戸時代には代官所支配の天領であったが、毎年正月十一日に村内の若者(十五歳より二十五歳)が、前年中に結婚した家の座敷を道祖神祭用のヤマとて長竿に五色紙の幣束をつけ、玩具など吊るす支度をなすための会合場とし、もし村内に数戸の新婚者あるときは若者等は手分けしてその家々にてこの支度をする。同村のヤマは長さ二十五間(約45.5m)と言う長大にて、これに要する費用は明治初年にても拾円(10円)を欠かなかったという。
 このヤマを十三日まで婚家の前に建て置き、それから獅子舞を雇い若者連付添で代官所の玄関へ舞い込む。このとき村内にて格式ある家の若者は袴を着し提灯を持ち玄関式台の左右に居並ぶ。代官所が済むと新婚者の家へ舞いに行くが、新婿は袴を着け土下座してこれを迎える。獅子は家へ舞い込むような素振りを見せても中々這い入らずして他の新婚者の家へ舞い行く。新婿はこれを見るや、急ぎ先回りして他の新婿の土下座をなし居る家に駆けつけ、共々に土下座して獅子舞を迎える。
 意地悪い若者になると獅子舞をけしかけて入る風をして入らず、度々新婿を困らせ幾回となく土下座をさせ、さらに田畑の中を駆け歩かせなどして漸く獅子舞を済ませる。
 村内へ来た入り婿はこればかりではなく、三年間はこの祭の小間使いとして働くべき義務がある。
 この土俗は古い姿が半ば滅びてしまったが、大昔にあってはこの獅子舞をする者が道祖神そのものであったのである。すなわち異形の姿をして神の名によって新婚者の家に来たり、そして新婿を苦しめたものであるが、時勢が下るにつれて神の正体が村民に知られるようになったので、ついには獅子舞がその代理をすることになったのである。その証拠は次の土俗と比較すると直ちに合点されるのである。
甲斐の国東山梨郡勝沼町
 正月十四日の道祖神祭に、若者の一人が夜具を着て小槌を持ち仮面を被って福の神の姿となり、新婚者の家へ赴いて祝儀を求める。祝儀の額が少ないと福の神はかぶりを振って受けとらず、新婿は種々家計の困難なことを言いたてて平にあやまり、福の神が受けとるよう懇願するけれども福の神もなおも頭を左右に振って聞き入れず、金額を増してようやく承知してもらうのを常とする。
 さらに日頃より若者に憎まれている家では中々急に承引せず、何か落ち度を見つけて祝儀を余分に取ろうとし、もし何の落ち度も見出せぬときは殊更に供膳の吸物椀の中へ畳のゴミなどを入れ、「馬ではない、かくの如きものは食われぬ、サァ引きとれ」というと、一同総立ちとなり立ち戻る気配を示す。その時は中老という世話人を頼み祝儀を増加し、機嫌をなおして帰らせるのを習いとする。
甲斐の国中巨摩郡小井川村布施
 正月十一日の道祖神祭に、若者頭がチハヤを着て道祖神になり、村内の賤しき者を道祖神のお使者と称し麻裃をつけさせ、この外に草履取を引き連れ新婚者の家に到り、前述と同じように祝儀を強請し新婚を苦しめる。
 こうして、これらの類例から推すも獅子舞が古くは道祖神であったことが知られるのである。甲斐の国の記事が思いの外に長くなったので、他地方の分は省略するが、これに類した土俗は他地方にも相当多く残されていたことを記憶していただきたい。なお付記すべきことは通例婿いじめのごとく考えられていた「墨塗り」及び「水かけ祝い」についてであるが、私はこれは単なるむこいじめではなくて、これには重要な意義が含まれているものと考えているので、詳細は第七章の「婚姻の呪術的進化」の条に記述した。参照を望んでやまぬ次第である。

 新しい婿を困らせるのが、お祭の目的みたいですね。困らせて、それを何とか乗り越えることが、婿と認められる条件だったのでしょうか。次は、「制度化」されてしまった婿いじめをご紹介します。

★社会制度に現れた入婿いじめ
 前に挙げた入婿いじめは、専ら古俗旧慣の範囲に属するものであって、まだ社会の制度として公然と認められていたものではないが、今度は制度として現れたものの二三について記述する。もちろん、制度とはいえ婚姻史のことゆえ、これに関係あるものだけに限ることはいうまでもなく、家督相続権とか財産処分権とかに言及せぬのは当然である。
 大昔の入婿が精神的に最も困惑したことは、氏神の「宮座」に加入することを禁止され、または制限されたことである。宮座の制度について要言すれば、宮座に加入するとは、氏神の祭礼権を獲得するというのにほかならぬのである。
 もちろん、現代のように氏神に対する信仰が減退し、宮座の制度が動揺しているのでは、祭礼権の有無とか宮座の進退とかいうことは少しも問題にならぬが、しかしながら神国を標榜し祭政一致を国是とし、自治制の中心が神社に置かれた古い時代においては、祭礼権を禁止または制限されることは、公民権を禁止または制限されるのと同一の結果となるのであるから、これ以上の苦痛はなかったのである。
 男子は元服して神事に参与することを許されぬ以上は、適婚者として公認されぬ社会にあっては、祭礼権の有無は現代の選挙権の有無よりは、生存上、更に重大なる意義を伴っていたのである。

丹波の国北桑田郡周山村
 庄屋・年寄などの村役人は「宮座」の者のみから互選して、決して座外の者を加えなかった。
大和の国初瀬町
 宮座仲間では、「橋詰頭屋」ということを勤めぬうちは、外来者に完全の町民権を認めなかったとある。
山城の国綴喜郡草内村東
 宮座である「大日座」の十人衆と称する者は、村役人に似た権勢を有し、菩提所大徳寺の寺務一切と摂社の社務とを司り、なお村政に参与する権利があった。
近江の国蒲生郡東桜谷村小野
 天神神社の神主は、往古から土地生え抜きの百姓二十戸が「室徒(もろぎ)」と称し、四戸ずつ組合い、一組八年ずつ一年代わりに神主を勤める格式を有していた。
越前の国大野郡石徹白村
 白山中居神社の神主は、「頭社人」というのものが十二戸あって、一年交代で一人ずつ年番で勤めるが、ここでは神主となると同時に村全般の行政まで司ったものである。この神主の資格が入婿に無かったことは、別に明記されていなくても推知するに難くないのである。

 このように祭礼にも村治にも、多大の特権を有していた宮座に対して、入婿は外来者なりとの理由を以って、これに加盟することを拒絶されていたのである。もちろん、これについてはその土地の慣習と情況とにより、自ずから寛厳の別があり一律を以って言い去ることができぬので、蛇足の嫌いがあるが、これに関して少し例を挙げるとする。

大和の国宇陀郡神戸村宮奥
 剣主神社の祭主は、村内の「当人」が勤めることになっているが、これは名誉ある役目であるが誠に手重いことになっている。祭主は宮奥で出生した男子に限られ、入婿は生涯これに当たることが許されぬ
播州曽根町
 天満宮の「頭筋」は、祭神である菅公一族の子孫のみで組織され、現今でも町内に二十余家存している。この頭筋はすこぶる厳格なもので男子の分家はこれに加入することができるが、婿養子をした場合には頭筋の資格が消滅する掟となっている。
備前の国児島郡甲浦村北浦の八幡宮
 氏子二百余戸を有しているが、「当屋」を勤める家筋は百余戸にしか過ぎぬ。これはその家系を正し族類を選ぶためてあって、例え富家でも良族でも、他村から移住した者、及び婿養子などは当役に服する資格が無いのである。

 大昔の入婿は概してこのような差別待遇に甘んじていなければならなかったのである。これでは小糠三合あったら婿に行くのに二の足を踏んだのも無理からぬ次第である。
 しかしながら以上の類例は、差別待遇にせよ婿一代だけですんでいるが、さらに過酷なものでは、婿一代は言うまでもなく子の代にまで及ぶものがある。

紀伊の国那賀郡眞國村
 古くは眞國荘といい荘内の南殿、田中殿はあたかも領主のようなものであったが今は両家とも絶えてしまった。両家の下に殿原、番頭などという「座筋」の家が十四軒ある。この座筋の家に男子がなくて他から養子または入婿した場合は、そのこの代まで座に列することを許さず、孫にいたって初めて列座を許す定めになっていた

 このような例証も克明に詮索したら、まだ各地に存することと思うが、今は老いて根気も失せたので、わずかに一例だけを挙げるとする。
 この過酷な制限に反して、極めて手軽に入婿の祭礼権を公認する土地もあった。

山城の国綴喜郡草内村東
 村内に男子が生まれると六七歳までのうちに大日座という宮座に加入して、座の台帳に登録してもらうことになっている。他村より入婿に来たものは幼童と同じように入座する。これを「氏神人」と称していいる。この台帳に登録された者は土地っ子と外来者との区別なく登録順により岩清水八幡宮の大祭に駕与丁を勤める資格が与えられるのである。
 古く越後長岡領では、婿養子は三十一年を経過しなければ、その家の「譜代」と公書することを許さなかったとあるが、これなども譜代となって初めて完全なる農民権が獲得されたのであろう。婿となるのはまた辛いかな、である。

 はぁ。。婿となるのはまた辛いかな、ですね。人間関係が濃密で、かつ仕事も生殖も村も家もすべて繋がっていた共同体内では、共同体内の祭=政を担えないというのは、この上なく辛いことだったんでしょうね。他方、あっさり共同体の成員として認めるところもあることから、その村にかかる外圧状況や構成員の比率などで、規範は柔軟に決まっていたのではないかとも推測されます。
 今回も、最後まで読んでくださってありがとうございます お婿さんのみなさん、ごめんなさい。でも、次回も婿いじめです。色んな種類があるんです。。

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