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中国の同化政策=婚姻政策とは?~漢民族という幻想~

シリーズでお届けしています「近現代の世界の婚姻制度の変遷」
😛 前回「中国の結婚事情」に引き続き、今回も中国について見ていきます。
前回は、現代中国の結婚事情(閃光族)の背景に、中国政府による強力な婚姻政策(一人っ子政策)があることを見てきました。
🙄 そこで今回は「ウイグル紛争」を切り口に、中国の同化政策(=婚姻政策)とは?について歴史を遡って見ていきたいと思います。
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北魏孝文帝陵
まず、いつものをヨロシク。
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😛 前回の記事では、
>このように、中国の同化政策とは、人類社会の最基底部をなす婚姻制度に掛かる政策であり、婚姻(自民族の子供を産ませること)により民族をDNAレベルから変革していく、まさに根底的な支配戦略と言えそうです。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2009/07/000621.html [5]
という、驚きの支配戦略として同化政策が紹介されていますが、これは中国の人口の94%を占める漢民族による同化政策なのです。
では、漢民族の成り立ちについて、歴史を遡って考察したいと思います。
まず、中国という大国は度重なる北方からの侵略や融合が度重なり、領土や文化が広がっていくという歴史があります。しかし、外からの流入にも関わらず、文明はしっかりと維持してきた。
🙄 なぜ「中華」という文明は維持されたのでしょうか?

「中華文明の形成」 http://joumon-juku.com/mori&hito/071.html [6]
 チャイナにおいて、侵入者は常に北方の遊牧民であった。この国のこうしたワンパターンの繰り返しの中で、いつしか牢固として抜きがたい「中華思想」なるものが形成されていくことになった。定着と過大人口という、ヨーロパとまったく相反する現象は、温暖な気候風土と広大な土地に根付いた農耕文化が基底にあるためだが、この事実が侵入した遊牧の民の異文化を解体し、同化し無力化していくことになった。
 なにしろ痩せて寒い北の僻地からこの地を見れば、いかにも豊かで有り余る文化を持っており、その魅力が、剽悍(ひょうかん)な騎馬の民を骨抜きにするのにさして時を要しなかった。あるいは伝え聞くこの地の豊かさと高度な文明が、常に絶ちがたいあこがれとなって北方の民を引きつけずにはおかなかったというべきかもしれない。
 梅棹忠夫の「遷移という視点」で見た場合も、森を破壊しながら遷移してきた西欧と違って、ここユーラシアの東においては、なにも日本に遷移することでチャイナの文明が枯渇したわけではない。日本に移入されたチャイナ文明が、(自分たちにとって)良きものだけを選択して受け入れるという、この国特有の文化と遭遇することによって、まったく新しい文明として勝手に花開いたと見るのが妥当である。
 したがってチャイナ文明の衰退は、けっして文明の遷移によるものではなく、その特異な「中華思想」が、周辺からの新しい良きものの導入を、かたくなに拒否し続けてきたからに他ならない。
 グローバル且つ歴史的な視座でみると、アジアの持つ内陸的で内向きで遊牧よりもはるかに農耕に依存している姿勢を否定することは出来ない。もちろんいずれの国でも海岸線を持つ以上海洋的側面は存在する。しかしながら国家としてみた場合、(特にチャイナにおいて)西洋における外向的遊牧的あるいは海洋国家的国家像のかけらも存在しなかった。なにしろ世界に冠たる中華文明が、移動をする必要などあり得るはずがなかった。
(中略)
 社会システムの上層に、抽象化された文明の原理に基づく広域的なコントロールのシステム(儒教に基づく文人官僚制と、ヴェーダ聖典を根拠とするカースト制)があり、他方、社会システムの下層には、血縁的性格の強い自治的共同体(中国の宗教・家とインドの村落・大家族)があって、限られた自衛力しか持たなかった。
(中略)
このように、抽象的な文明の原理を不動の骨格として保持しながら、具体的な生産活動は自治的小単位で実行されるという自由度の高い構造が、外からの衝撃を吸収し、侵入民族を文明の原理にけっきょく隷属させて、大文明としてのアイデンティティを保持させたと思われる。

西洋の文明が、遊牧文化による農耕文化への略奪に対して、 チャイナ文明は、農耕文化が侵入してきた遊牧文化を吸収し消化してきたと言えます。
これは遊牧民族が「自らが中国人の道を選んだ」という事だと言えます。
※補足

「中華思想とは何か」 http://joumon-juku.com/mori&hito/071.html [6]
 (簡単にいえば)中華思想とは中国中心的な思考と行動の様式であり、中国至上主義の優越意識である。世界の中央に位置する最高の文明国であることを自負し、周辺の民族を野蛮視する観念だ。したがって中華思想の核心は、一方では自国民と文化の優越性を無限に強調しながら、他人のことを、一切無視するところにある。言い換えれば外国の文明と文化をすべて蔑んで見下す、独特な反文明思考様式である。

結果、華北を支配した遊牧民は言葉も名前も中国化していきますが、普通に考えれば目的は何か?と不思議に思うでしょう。
🙄 それもそのはず、彼らの目的は「広大な中華の地を支配する」ためだったのです・・・。

中国化した『北魏』(「早わかり世界史 日本実業出版社」より引用)
遊牧民の侵入による大混乱が長期間続いていた華北では、439年に鮮卑族の「北魏」が北燕を倒して、百数十年続いてきた五湖十六国時代に終止符を打った。その結果、「北の統一王朝」と「南の王朝」が対峙する「南北朝時代」に入った。
長期間にわたり長城内外の広大な地域を支配した北魏は、本格的な征服王朝であった。北魏は、西域から伝来した仏教をイデオロギーとして利用し、雲崗石窟に歴代皇帝の大仏つくることで皇帝の支配を権威づけようとした。しかし円滑な統治には漢人官僚の協力が不可欠であり、帝国は急速に中国化の道を歩むことになった。
第6代孝文帝は、都を長城付近の大同から後漢の都であった洛陽に移し、鮮卑語や鮮卑の習俗を捨て、名前までも中国化して、漢人貴族との結婚を奨励した。

自らが『中国人』の道を選択し歩んだ事の意味が良く分かりました。
まさに同化政策の原点です。
🙁 歴史をみると見えてきましたが、中国人とは多民族が混血化したに過ぎず、純粋な『漢族(人)』として血(DNA)を受け継いで来たとは言いにくいですね。
🙄 実態は下記のように、
『漢族(人)』とは「漢地の文化を持つ人」という事になります。
この意識(+利権闘争)が暴走し、今の「ウイグル紛争」にみられる同化政策(=婚姻政策)という、荒手な政策に走っていると思われます。

■第二章 漢民族国家という幻想http://www3.ocn.ne.jp/~kenro/history/china_ethnicity/1.html [7] 
 中国=漢民族国家という強い意識は、十九世紀末から二十世紀にかけて形成された。漢王朝の成立により、「漢」は中国王朝を象徴する用語となり、その後も中国の王朝、その領域及び領域内に流行する文化を複合的に象徴する用語として生き残った。しかし、異民族が外部から漢地に侵入して征服王朝を作った時代には、「漢人」=「漢地の文化をもつ人」となる。清朝の漢族に対する差別政策は、「漢族」という民族意識を刺激し、孫文をはじめとする多くの革命家はここから「漢」民族主義、「漢」民族国家の幻想を描きはじめた。

読んでくれてありがとう・・・。
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