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日本の性風俗の変化 江戸時代~明治時代

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画像は、こちらよりお借りしました下田の公衆浴場 [1]
日本の性風俗は、明治の文明開化の煽りを受け、変化してきました。
その一例ですが、紹介したいと思います。
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①『裸禁止令』:明治5年(1872年)には人前で裸になることを禁止した法律


>和服はとても窮屈なイメージがありますが、実は昔の人達も同じだったようです。日本人は和服を軽くひっかけるようにして着ていました。すると、当然、着物がはだけてしまいます。このような姿について、ペリーに随行した宣教師のサミュエル・ウェルズ・ウィリアムは、「婦人達は胸を隠そうとはしないし、歩くたびに太腿まで覗かせる。男は男で、前をほんの半端なぼろで隠しただけで出歩き・・・」というように半ば蔑むように語っています。このような「裸体」の風俗は、日本人にとっては極めて普通のことでしたが、初めてこれを目にした西洋人達はとても驚きました。このような「文明」の視線に対し、日本を野蛮と思われるのを嫌った明治政府は、「裸体」の風俗を取り締まるようになります。

「新聞雑誌」第50号は「裸や肌脱ぎがいけないというなら、いつも肌脱ぎしているお釈迦様はどうなんだ」と述べ、自国文化を擁護した。

②『混浴禁止令』:明治2年,5年,8年と禁止通達を出し、明治33年(1900年)に12歳という年齢制限による混浴を禁止した法律

江戸時代には、大量の水と薪を入手することは難しく武家や豪商ですら自宅に風呂はなかった。全身浴ができるようになるのは江戸後期で、初期は小さな浴槽で半身浴していた。浴槽は一つしかなく、混浴である。熱を逃がさないため窓は少なく、内部は薄暗かった。そのため若い女性にいたずらをする男性はいたようで、当時の川柳に残っている。ただ薄暗い湯屋の中で、裸を恥ずかしがる観念があったとは考えにくい。銭湯の二階は庶民の社交場で、武士は刀を預けて囲碁・将棋に興じ、庶民は歌舞伎役者の品定めなどさまざまな話題に花を咲かせた。銭湯の2階からは、浴室が丸見えだった。 

後の時代には、湯女が銭湯で垢すりや髪すきを行う湯女風呂が登場した。松平定信は1791年、江戸の銭湯での混浴禁止令を出したが、これは湯屋における売買の取り締まりを企図したものと考えられている。なお定信は浮世絵の多色刷りも禁止しているが、春画を取り締まるためだった。 

幕末に日本を訪れた西洋人は、日本人の入浴文化について以下のように記録している。 

「裸でも気にせずに男女混浴をしている公衆浴場を目のあたりにすると、アメリカ人には住民の道徳性について、さほど良い印象は持てないだろう。」(『ペリー艦隊日本遠征記』)

「私が見聞した異教徒諸国の中では、この国が一番淫らかと思われた。体験したところから判断すると、慎みを知らないといっても過言ではない。婦人達は胸を隠そうとしないし、歩くたびに太股まで覗かせる。男は男で、前をほんの半端なぼろで隠しただけで出歩き、その着装具合を気にもとめていない。裸体の姿は男女共に街頭に見られ、世間体などはおかまいなしに、等しく混浴の銭湯に通っている。」 (サミュエル・ウィリアムズ著『ペリー日本遠征随行記』)

当時当たり前に行っていた混浴や裸体による日常活動が文明開化の煽りを受け、『淫らである』と西洋人からいわれ、原則禁止、そして都市部では取締りが強化されたが、当時の人々にとって、性は隠すもの・行為ではなくおおらかなもの・行為であると認識していたことがわかった。
性は日常であった。

引用サイト
日本の混浴は猥褻(わいせつ)か

「裸体」の取り締まり [3]

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