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日本婚姻史1~その8:日本人はどのように恋愛観念を受容したのか?~明治編

みなさん、こんにちは。シリーズ「日本婚姻史1」その8をお届けします。

 前回の大和時代以降の婚姻制度【嫁取婚(父系制私有婚)の登場】 [1] では、支配階級の婚姻制度が、母系から父系の私有婚に変わっていく過程を押さえつつ、農村部では集団婚の流れを汲む夜這婚が、昭和初期まで残っていた様子を見ました。
 いずれにしろ江戸時代までは一貫して、婚姻は集団課題であり、婚姻が自由な性に基づく個人課題になったのは、明治になってからだったのです。
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 今回は、明治時代にいかにして、婚姻が集団課題から個人課題に転換したかを、るいネットの投稿「日本人はどのように恋愛観念を受容したのか?~明治編」 [3]を参考に、明らかにしたいと思います。
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 庶民が縄文以来の夜這婚=集団婚の実質を持ち、恋愛観念から無縁であったことは勿論のこと、武士階級といえども家意識で統合されていた訳で、結婚の実態は見合いであったことを思えば、江戸までは間違いなく男女関係の中心軸は性市場での恋愛ではなく、規範=役割意識に支えられた和合共認であったことは疑いの余地がない。(現に江戸時代の庶民に受け入れられた心中ものは、専ら私権意識やら身分意識に阻まれた男女和合を問題にしていたし、好色ものは集団婚なき都市における代替システムともいうべき遊郭を舞台にした奔放かつ粋な世界を描いたものである)

日本人になじみのない恋愛観念が定着するには、不倫をタブーとする厳格な一対婚規範が定着する必要があるが、日本人はどうしてそんな窮屈なものを受け入れてしまったのだろうか?



 自我の性が衰弱し和合共認が再生されつつあるにも関わらず恋愛観念の呪縛が解けないでいる現在、一対規範と恋愛観念受容の日本近代史の解明は、その突破口を考えるヒントを与えてくれるかもしれない。

 まずは明治政府における婚姻制度改革の流れをおさえてみたい。明治民法の規定には「妻は婚姻によりて夫の家に入る」「夫は妻の財産を管理す」「家族が婚姻を為すには戸主(家父長)の同意を得ることとする」とあり武士階級の家意識が引き継がれたものになっている。
 しかしこの民法制定の前にフランス人法学者ボアソナードの起草に手を加えた旧明治民法が存在する。この旧明治民法は私権を広範に認めるものになっており家父長制度に反する内容を多く含み、「民法出でて忠孝滅ぶ」と大反発にあい、(自由民権色の強い)フランス法学よりは(民主主義後進国であった)ドイツ法学に依拠した作り直しが行われ明治31年施行となった。
 このように明治の支配階級においてはフランス流の急進的な自由民権思想(個人主義的で男女平等意識も含まれており家父長制を否定した夫婦同権論)と家意識を中心に置いた皇室中心主義的な思想の相克の時代であったといえる。前者の代表は福沢諭吉、森有礼らであり、後者の代表は初代東京帝国大学学長の加藤弘之であった。
 家規範派と一対婚派の対立の背景にあったものはひとつには支配階級における一夫多妻(一対規範の乱れ)があり、下級武士出身であった森、福沢の大奥批判=潜在的な反権力意識があったと思われる。しかし、彼ら下級武士階級出身の知識人はあたかも庶民の味方のような顔をしているが女は貞操たるべしという武士規範の前提を覆すことはなかった。その点で彼らも所詮支配階級の一部であったのであり、より深い意識としては集団婚を楽しみ私権意識からも家意識からも自由な庶民の側に立つことはなかったのである。

 なるほど、明治の支配階級は、武士の伝統を引き継ぐ家規範派と、フランス流の個人主義に基づく一対婚派で対立しつつも、庶民の集団婚は考慮すらされなかったのですね。

 実際、夫婦同権=一対婚規範への転換か、家父長規範の継承か、という議論とは別に、農村における集団婚の土台をなす若者組への介入は進んでいった。
 貨幣経済の進展により貨幣獲得のために娘を村の外へ出す機会が増え、村内婚は困難になっていく。(あかとんぼにしろ雨降りお月さんにしろ戦前の嫁入りの歌が哀しげなのは実際、嫁ぐ嫁自身が気の進まない結婚が多かったからである。その点で福沢の金のためだけで同意なき結婚では夫婦和合は守れぬとの指摘は間違いではない)
 こうした事態に対して若者組は娘を「かつぎだし」村外婚への抵抗を見せたが、明治政府はそれを「掠奪婚」として禁止、弾圧していった。集落における男女和合のメタファーであった男根をかたどった道祖神も門松も禁止され交遊の機会であった盆踊りも目の敵にされた。支配階級に長年蓄積されてきた「土着集団婚に対する嫉妬=コンプレックス」が土着風俗を否定し「貞操観念」を支配観念に押し立てていったのである。
 このようにして開国の波の中、私権獲得のための嫁入りが一層進み、そのために家観念でいくか一対婚規範でいくかが議論される中、女子の貞操観念は(娘の商品価値を高めたい家父長にとっても都合がよかったので)正当化されてゆき、貞操=女の商品価値をないがしろにする集団婚は罪悪視されていく。

 貨幣経済の進展により、貨幣を獲得するためには、娘の性的商品価値をあげた方が都合が良いため、貞操観念が正当化されていき、庶民も集団婚から嫁取り婚へと移行せざるおえなくなり、それを支配階級の集団婚へのコンプレックスが後押ししたということですね。

 そして明治民法が成立するころには、家規範の衣をきた父権による強制的な嫁入りは社会矛盾を拡大させていくばかりで、島崎藤村・志賀直哉らが「家制度」を問題とする文学作品を書くようになる。
 明治政府はギリギリのところで家規範を法制化させたが、農村が養蚕など貨幣経済に直結した生産様式に転換した頃から実態としてもはや家規範が有効に機能する状況になかったといえるのではないだろうか。(また職も家も失った士族が吹き溜まっていた都会でも同じような状況であっただろう。)

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 支配階級は、庶民の集団婚を弾圧しつつも、家規範で、自由な性市場に基づく一対婚は、封鎖しようとしたが、市場も近代思想(自由、個人、恋愛)も自我を原点としているため、市場の拡大とともに、自我が肥大し、家規範は崩壊への道をたどるしかなくなったのですね。

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 つまり家規範は武力支配時代の婚姻様式としては適応可能でも、市場経済下では役に立たないい、それでも統合するには一対観念しかないという婚姻制度の混乱状況が、大正デモクラシーと恋愛至上主義の道を開いていった。・・・明治とはまさに日本婚姻史上の最大の混乱の半世紀であったといえるだろう。

 混乱の末に花開いた恋愛至上主義も、豊かさが実現し、市場拡大のエネルギーが衰弱するとともに、終焉の時を向かえつつあります。

次回は、これまでのまとめを行ない、最後にこれからの男女関係について、男女役割規範の再生を軸に考えてみたいと思います。

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