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日本婚姻史2~その6:夜這いの解体と一夫一婦制の確立3

このシリーズでは、かつて日本に存在した「夜這い」について・・・・・・
日本婚姻史2~その1:夜這い婚とは? 
日本婚姻史2~その2:地域の教育組織「若衆」「若者組」「娘組」 
日本婚姻史2~その3:夜這(オコモリ)は女性から若衆への期待
日本婚姻史2~その4:夜這いの解体と一夫一婦制の確立1
日本婚姻史2~その5:夜這いの解体と一夫一婦制の確立2
と見てきました
前回の「夜這いの解体と一夫一婦制の確立2」では、明治時代の資本主義侵入や国家政策が村落共同体の解体、富農と貧農層を生み出したという視点がテーマでしたが、今回はその結果、村落での夜這いがどうなっていったか、村落共同体の解体や富農と貧農層の実情は、という視点で見てみたいと思います。
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前回の復習も兼ねて、明治時代の資本主義侵入や国家政策が村落共同体にどのような影響を与えたか、
ウィキペディアより [2]

明治維新期に行われた地租改正と、田畑永代売買禁止令の廃止により寄生地主制が進展した。地租改正により土地所有者は金銭によって税金を払う義務が課せられることになったが、貧しい農民には重い負担であり裕福な者に土地を売り渡し小作人になっていった。
寄生地主の中には質屋などの金融業を兼業し、小作人を中心に金銭の貸付を行っていたものも少なくなかった。これにより、農村内での貧富の差は一層拡大された。こうして獲得した富を商工業に投資し、近代的な資本家に転換していった者もいる。


大分県の事例で
地主制が発展していった事例が紹介されている。 [3]

 明治6年(1873)の 地租改正 は、地租を金納とし近代的な税制確立をはかったが、小作制度には手をつけず、小作料も物納のままであった。
地租改正を期に小作料を改正した西国東郡では、収穫量に対する小作料の割合は64~57%の高額であった。明治14年にはじまった 松方 正義(まさよし) のデフレ政策の影響を受けて、16 17 18年と続いて米 価は下落、17年の凶作、20年の大 水害 などで農民は苦しんだ。
米価が下落しても、金納である地租額は変わらないため負担は増加する。21年の県内の農民の借金件数は206,000口 約40万円、これに普通借金を加算する と総額420万円もの多額にのぼった。
借金苦から土地を手ばなしたものは小作農となった。16年に26.6%であった大分県の小作率は、25年には39.0%となった。10年間に12.4ポイントも増加したのである。この結果、府県別小作地率順位は、38位から21位へと上昇した。地主化が遅れていた大分県でも、このころ、急速に地主化がすすんだ。

こうして富農と貧農の格差が広がっていき、片や大地主から、資本家に、片や貧農は益々貧しくなり土地を売り、それでも食えないので、都市に逃れていったのですね。こうして村落共同体は解体されていきました。
その過程で、夜這いを成り立たせていたムラの組織である、若衆組や娘宿がどう解体していったか、るいネットの記事では
「夜這いの解体と一夫一婦制の確立3より」 [4]

<明治初期~後半 娘宿の激減→消滅の原因>

若衆仲間は二十人、三十人とあるわけだが、娘仲間は女工・女中などの出稼ぎ、子守、女廊などに売られたりで、娘分として残るのはせいぜい十人か、十五人ぐらいであり、そのうちから二、三人は結婚して脱退するから、若衆組に比すると人数は少なくなる。それが娘宿が激減し、消滅して行った原因であった。

絶対数からいえば、常に娘の数は、若衆よりも少なかったわけで、したがって争奪も激しいし、他所のムラへ遠征することにもなる。また山村とか小さいムラになると娘だけでなく、後家、女中、子守まで加え、それでも不足すれば嫁などまで開放することになった。
こうなると、娘宿は成立せず、女の講中が代わって出現する。したがって、(一部を除き)娘宿というのは急速に減退した。

<明治時代 若衆仲間(ムラの組織のひとつ)の第一次的解体要因>

貧農や小作人との対抗のため、ムラの地主たちが郡、あるいは県段階で結合するようになる。地域的、地方的横断組織が発達してくると、すぐに影響が大きくでたのは結婚である。
それまででも富農の間では村外婚が普及していたけれども、一般的には村内婚が多かった。こうして地縁的関係よりも経済的関係が優先されるようになると、村外婚が多くならざるをえない。

それに明治政府の地方自治制度創出で戸長、村長などの格ができ、次に村会議員、群会議員、県会議員が出現し、ムラムラの家の格が明確になってきた。ほぼ同格の家と縁組みするのに適当な基準が、政府によって公式に作られたのである。そこで富農や地主層は村外婚、一般農民や水呑み層は村内婚と分化が進んだ。

村外婚をねらっているような家では、娘を密封し、「夜這い」から離脱させる。教育勅語を盾にして貞操を守らせる方が、高く売り出せるからだ。男の方も京都、東京などへ遊学させることが流行し、そのうち地方にも中学校が建てられ、かれらの希望を満たすことになる。

どこのムラにでも「ハカマギ」(袴着)の二人や三人できることになり、ムラの若衆から敬遠され、排除するムラが多くなった。昔は全的機能をもっていた若衆仲間は、こうして富農層の子弟を男女とも除外するようになる。
これが若衆仲間の第一次的解体要因であり、後に若衆組の経験がない富農層の子弟が、ムラの指導者となって若衆組を支配し、利用するようになる基を作った。

以上引用

紹介したこれらの記事では明治維新期に行われた地租改正などの農地改革、即ち貧富格差政策が、村落共同体を一挙に蝕んでいった過程が記されています。
村落共同体の婚姻制度を成り立たせていた夜這いや、その場であった若衆宿や娘宿などがどのようであったか、どう解体していったか、資料が少ないのですが、日本人の婚姻制や気質を考えるうえで、重要であり、今後も探っていきたいテーマですね。

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