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日本人の可能性③~西欧と西洋の民主制の違い

Posted By tabtab On 2010年7月4日 @ 9:09 PM In 未分類 | 1 Comment

「日本人の可能性シリーズ」第三弾は、「西欧と東洋の民主制の違い」を取り上げます。西洋と東洋の民主制(主義)の本質を比較しながら、日本人の本質=共同性を明らかにしてゆきましょう。
まずは応援よろしくです。
[1]
るいネットの『西欧と東洋の民主性の違い』という記事をテキストに進めてゆきます。

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これからの会議はみんなで提案したり決めたりするのが主流になるだろう。


『西洋と東洋の民主性の違い』雪竹恭一 [2]

ここで、改めてルソーの「一般意思」をはじめ近代主義者の理想論が挫折せざるを得なかった理由について考えてみて欲しいと思います。また、日本の近代が手本にしてきた西洋の民主主義の現実をよく考えてみて欲しいと思います。

西洋社会は政治システムとしての民主主義制度は日本よりははるかに確立されているのかもわかりませんが、現実は近代以前から現代まで一貫して厳然たる階級社会のままですし、強者と弱者の対立を力の論理で制圧する社会であるという本質は何も変わっていません。つきつめて言えばこれは「他には頼るものはない。
結局最後は頼るのは自分しかない。」という「自立した個人」の対立を大前提にした(前提にせざるを得ない)意識(世界観)の産物であり、これこそ個人主義思想の本質ではないかと考えています。さらに言えばこれは狩猟民族として闘争序列を厳格に共認してきた民族性と徹底的な(壊滅的に氏族共同体を破壊しつくしてきた)侵略・略奪闘争を繰り広げてきた民族の歴史の積み重ねによる、西洋人の精神の伝統的本質であるとも考えています。

従って、西洋人にとっては、個人と個人の「対立」は当たり前の前提であり、力の論理で制圧することは当然のこととして共認されているのだと思います。(負けたら負けた方が悪いとあきらめざるを得ない。)ですから、いくらルソーのような問題意識が登場して、いくら「自然に帰れ」と叫んでみたところで、侵略と略奪の歴史とその根本原因たる自我・邪心と力の論理による制圧を徹底的に総括しない限りは、西洋人の共認の根本が変わるはずはなく、理想論は挫折せざるを得ないのです。

つまり、西洋の「民主主義」とは「個人の自我・邪心に基づく個間闘争による対立を(多数決という)力の論理によって制圧し、社会を秩序だてる考えかたとその手続き」というように言えるのではなかろうかと思います。

それに対して日本の民主主義は、(できれば別にまた詳しく論じたいのですが)基本的には前述した様に、「対立」よりも「相互理解(=共認)」や「和をもって尊しとなす」精神を旨としており、力の論理による制圧を日本人は好みません。日本人は対立を前提とした「個人の自由で主体的な判断」によって、力でねじ伏せられるのは納得がいかず耐えがたいのです。
ですから、「個人の自由で主体的な判断」を主張しあうことより、「皆で知恵を出し合って考える」ことの方が好きなのであり、その方が向いているのです。
考えてみたら日本人の方が、よっぽど「民主的」な民族と言えるかもわかりません。

以上、個人の方から集団に対して一方的に「個人の自由で主体的な判断」などと主張することより、「皆に聞く、皆で考える」方に頭を切り替えろ!その方がよっぽど民主的だし、「社会の合理的意志形成(=共認形成)」にとって可能性が高い。というのが個人主義派と共認派の私の「対立」点です。


読みやすい記事なので、全文を一挙に紹介しました。
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多数決は一瞬民主的だが、究極は力の論理以外、何ものでもない。
このなかで、
西洋民主主義の本質を表していると思われる部分は
>つまり、西洋の「民主主義」とは「個人の自我・邪心に基づく個間闘争による対立を(多数決という)力の論理によって制圧し、社会を秩序だてる考えかたとその手続き」というように言えるのではなかろうかと思います。<
のくだりですね。
前回の日本人の可能性②~西欧と日本の階層意識の違いでの記事にもあったように
>『自分VSそれ以外』ということです。 根底には『周りは全て敵』という思考があるようですね。<
個人の自我・邪心に基づく個間闘争、 根底には『周りは全て敵』は放っておけばそれは殺し合いに通ずるのでそれでは、集団や社会は維持できないので、それで生み出された秩序維持装置や手続きが民主主義であったと考えると、よく理解できます。
このような西洋の民主主義を、日本でも取り入れているのですが、何故日本的民主主義はこうもちがうのか、次の記事を紹介します。

 「日本的民主主義」より [3]

以下引用・・・・・・・・・・

ここに大学の政治学の教科書に使われた、『概説現代日本の政治』(阿部斉/新藤宗幸/川人貞史著)という本があります。その中で、民主主義の日本的特徴を次のように解説しています。

  ------------------
 民主主義という政治の原理は、もともと欧米で発展したものであり、日本の民主主義の発展は、欧米の原理を受容したことから始まった。しかし、それは日本の民主主義が欧米の民主主義と同じであることを意味しない。日本の民主主義には、欧米の民主主義にはみられない日本的特徴がある。それはいかなる特徴であろうか。

 

まず第一に、欧米の民主主義は個人を単位として社会を構成する原理であるが、日本では、社会は個人が構成するものであるよりは、むしろ自然に形成されるものである。日本で集団の原型とされるのは、家族と村落であり、いずれも自然に形成された第一次集団であって、その中では人々は和気藹々(わきあいあい)となごやかに生活を送るものとされる。

 

他の組織はこうした第一次集団になぞらえてとらえられるのであり、国家もその例外ではない。集団の指導者に要求されるのは、親心をもって構成員に接することであり、構成員に要求されるのは、「みんなで仲良く」集団の和を保つことである。(中略)

 第二に、欧米の民主主義はあくまでも政治の原理であり、政治が対立と紛争に決着をつける機能を持つ以上、民主主義も喧嘩に決着をつけるという働きを持たざるをえない。「民主主義は頭数を勘定する方が頭を叩き割るよりはよいという原理に立っている」(カール・ベッカー)といわれる所以である。しかし日本の場合、国家も家族の擬制において理解されてきた以上(家族国家観)、国家はそもそも対立や紛争を含まない集団とされざるをえない。対立や紛争がなければ、政治も存在の余地がなく、要するに日本の国家は非政治的国家とならざるをえない。

・・・・・・・・・・以上引用
西欧と日本では古代からの国家の成立過程からして違うのだから、同じ民主主義でもその中身が違うのは当たり前なのでしょう。
もう少し具体的事例で西欧と日本を考えて見ましょうか。



 『国際環境の会議で何故発言できないか。』 [4]より

以下引用・・・・・・・・・・

我々のカルチャーにおいては、複数のひとが何か議論をする時は、自分の前の発言者が言い終わるのを確認したうえで、次の人が発言をする、というのが前提である。われわれは無意識でそれを行ない、習慣になっている。
そして、それを守らないと、少々「自分勝手」、「礼儀のなっていない」ひと、ととられてしまうかもしれない。
また、そのミーティングでベストの結論、方法を導く為に、専門知識や議題に関して経験のある人が参加している場合は、その人の意見や貢献を皆が期待し、尊重する。

では海外における外国人の発言形態はどうか?
 

中略
つまり、ベストなミーティングを行なう為に誰が意見するのに適任であるかといった配慮よりは、いかに「自分」がミーティングで一番発言、および貢献できるかという点の方に重点を置く人が結構いるのである。これは自分の思うに、自己主張の強い社会のマイナスな面の一つであると思う。
・・・・・・・・・・ 以上引用

日本社会でも会社などで、一昔前の出世競争など競争社会といわれた時期がありましたね。その時代なら、みんなの競争で会社全体の活力が上がる時代でそうような主張をするなどの風潮がよしとされた時代がありましたが、今考えてみると、それは西洋型の民主主義であって長くが続かなかったですね。
逆に今の時代は私権追求の活力も衰弱し、日本人の先祖帰り的傾向になっているのではないでしょうか。
西洋型の民主主義と日本型の民主主義の違いと特徴が、おぼろげながらわかって着ましたね。
肝心なのはこれからの私たちの社会のなかで、どちらの民主主義に可能性があるのかということだと思われます。
最近のなんでや劇場 [2]のレポートの抜粋を紹介します。

以下抜粋・・・・・・・・・・

1月のなんでや劇場の結論は、
’10年代、私権体制(企業)が崩壊過程に入り、共同体の時代が始まったというもの。

私権追求の活力衰弱が全ての根底にあり、’70年以降から始まる私権欠乏の衰弱→物が売れない→市場縮小⇒支配階級には都合が悪いので、国の借金によって人工的に需要を作り出してきた。人工呼吸装置によってかろうじて生き延びているのが現在の市場なのである。しかも、物が売れない以上、ばら撒いたお金は金融市場に流れ込み、市場は必然的にバブル化し崩壊する。

また、私権圧力が衰弱し、序列原理が機能しなくなると、上から命令してもその通りには動かなくなり、各企業において(都合の悪いことは)隠蔽・誤魔化し・言い訳のオンパレードになる。指揮系統が機能しなくなる、この現象こそ、私権体制の崩壊そのものである。

今や、私権体制・序列体制がもたなくなっているということだが、私権企業の衰弱する一方で、’00年代に入って、様々な共同体的企業が続々と登場し、しかも軒並み成功している。これが、共同体の時代に入ったとする根拠である。

このように、時代は私権社会から共認社会へと大転換を遂げつつあるが、共認時代に必要とされる能力は何か?
共認力(共認形成力)であることは言うまでもないが、その中身は、周りの期待や課題をキャッチする受信力・期待や課題の本質を掴む照準力である。そして、共認力の母胎となるのは周りとの共認充足であり、それこそが共認時代の活力源なのである。

・・・・・・・・・・以上引用



時代は
>私権体制(企業)が崩壊過程に入り、共同体の時代が始まった<
>時代は私権社会から共認社会へと大転換を遂げつつある。<
ということは、正に日本的民主主義、日本人的共同体がこれからの社会や、人々の生き方として求められているのではないでしょうか。


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[3] 「日本的民主主義」より: http://http://hansenjuku.cocolog-nifty.com:80/blog/2009/02/post-5a87.html

[4] 『国際環境の会議で何故発言できないか。』: http://thinkingabroadjp.blogspot.com/2009/02/blog-post_16.html

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