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集団を超えた、共認原理に基づく婚姻体制って過去にあるの?1~はじめに~

Posted By okatti On 2010年7月23日 @ 10:44 PM In E 1 全般 | 1 Comment

読者から、「紹介される未開部族の婚姻形態のほとんどが一集団内のシステムに過ぎない。集団を超えた、共認原理に基づく婚姻体制って過去にあるんでしょうか!?」との声が寄せられたので(ありがとうございます)、この問題にシリーズで取り組みたいと思います。
まずは“集団”をどのレベルで捉えるかが問題になりますが、一般に未開部族は、
部族=地域集団で、いくつかの氏族が祭祀・呪術などを通して統合されている
氏族=親族集団で、共通の祖先観念・系譜観念をもつ
出自集団=氏族の分節(リネージとよばれるのは父系や母系といった単系の出自集団)で、複数の出自集団が集まって集落(居住集団)を形成する
の3段階の集団で構成されるとされています。
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ここで“集団を超えた婚姻体制”という場合、
通常、未開“部族”は、外婚単位として機能するいくつかの氏族(親族集団)で構成されているので、「①部族内、②氏族外」、つまり“氏族(親族集団)を超えた婚姻制”ということができます。しかし部族レベルからみれば部族内で閉じているので、「一集団内のシステムに過ぎない」と映ってしまうことになります。
次に、未開部族の段階を脱して部族連合の時代を迎えると、①部族外の(部族を超えた)婚姻制が登場します。これを先の外婚と区別するために「族外婚」とよぶことにしますが、ここに至って、真に“集団を超えた”といえると考えられます。
ただ恐らくは、族外婚は外婚の原理をそのまま応用していると考えられるので、本シリーズでは、最初に外婚の事例およびその原理を解明し、続いて族外婚の事例を研究したいと思います。
(補)未開部族の時代でも、小さな部族が点在している場合は他部族間での婚姻がみられたり、また同類闘争圧力が強い場合は部族連合的な婚姻も見られたりするので、合わせて事例研究します。
シリーズ構成は以下を想定しており、未開部族の外婚制の事例および婚姻原理は、レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』を軸に進めます。
1.はじめに
2.互酬原理
3.インセスト禁忌と外婚制
4.交叉イトコ婚
5.限定交換-オーストラリア
6.全面交換-ビルマ、中国、インド
7.族外婚の事例
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シリーズをはじめるに当って、未開部族にとって婚姻とは何か?集団とは何か?、これらが如何に絶対的であるかを、『親族の基本構造』から紹介します。
婚姻規則に限らずあらゆる集団規則は、集団が集団として存在するのを保証するためのもので、いわばこの規則という介入は、根本的に重要な価値が不足したり気紛れに分配される事態に集団が直面するたびに発動され、積極的に解決されます。
集団による割り当て管理は女にばかりか、あらゆる価値を含めたその全体に及び、なかでも食糧はもっとも欠くべからざる価値(有用品)だが、それだけにとどまらず、女と食糧の間には現実的・象徴的関係の一大体系が存在することを、シリーズを通してみることになります。
●未開部族にとって婚姻とは何か?
大半の未開社会では、婚姻は性愛にでなく生産経済にかかる重大事であることを呈する。
男と女とでは会得している専門技術が違うので、日々の仕事に必要な道具を製作するのに互いを必要とする。そればかりか、男と女はそれぞれ異なった型の食糧生産に従事するので、満足な食事が取れるかどうか、とりわけ毎日欠かさず食事ができるかどうかは、世帯単位で組織される「生産協同組合」にかかる。

ピグミーは「女が多くいればいるほど食べ物も増える」といい、「女と子供を家族集団の労働力のもっとも貴重な部分」と考える。そして、独身者を自然に反する存在として軽蔑し揶揄する。
中央ブラジルの原住民の村では、どの家族も夫と妻が力を合わせることでかろうじて飢え死にせずにすんでいることがしばしばで、婚姻は誰にとっても死活問題だといってよい。したがって、自分の配偶者を見つけること、そして自分の集団の中に独身者と孤児という災いが招かれないことを最大の関心事とする。
インディアンボロロは「一人前の男が独り身でいる姿など見当たらないばかりか、そもそも独身生活というものが想像を絶する。独身でいようにもそんなことは許されないからである」という。
ニューギニアでは、経済体制と伝統的性別分業規則とが両性の共同生活をどうしても必要にさせる。この生活形態をとることは、実際にも全員の義務とされる。例外は不具者だけである。
トナカイ・チュクチの誰にとっても、自分の家と家を管理する妻なくしては最低の生活さえままならない。大の大人が独身でいれば、みんなから軽蔑を買うだけである。あいつはでくの坊で怠け者、テントからテントを渡り歩く流れ者だといわれて。
ビルマカチンでは、誰も進んで独身生活を送るなど思いもよらない。カチンの男にとって、結婚して子をもうけるのは大きな栄誉、子孫を残さず死ぬのは恥である。
東方ユダヤ人古代バビロニア人は「妻なき男に天上の楽園も地上の楽園もない。女が創造されなかったら、太陽も月もなかっただろう。農耕も火もなかっただろう」とする。

●未開部族にとっての集団とは何か?
じつに多くの未開民族が、彼らの言葉で「人間」しか意味せぬ名前によって自らを名指すが、それによって彼らは、集団の境界の外に出ると人間性のなにか本質的な属性が失われると考えていることを教える。

ノートン・サウンドエスキモーは、自分たちを「最高の」、もっと正確には「完全無欠の民」と定義し、近隣蛮族を形容するのに「しらみの卵」という呼びかたを別にもつ。
ブラジルには、はじめてアメリカに連れてこられた黒人奴隷たちを「地上のサル」と思った民族がいる。
メラネシアのいくつかの民族にあなたがたは何者かと尋ねたところ、「人間である」と答え、白人を人間ではなく、幽霊か悪鬼、海の妖精だと思っていた。
ニューヘブリデス諸島に上陸したヨーロッパ人は最初、幽霊と受け取られ、幽霊という名前をもらった。着ている服は幽霊の皮、連れてきたネコは幽霊のネズミと呼ばれた。

これらの事例で大切なのはただ一つ、共同体観念の論理的内包の広がりを知ることであり、この内包自体が集団の実際の結束度に左右される。

ドブ島では白人は「種類が違う」「原住民の言う意味での人間とは違う性格を帯びた存在」と見なされた。ヤムイモは人として扱われており、似ている順はかくして次の通り。原住民集団→原住民集団を延命させるヤムイモ→共同体のまったく外に置かれる白人。

原住民は中立関係というものを、もっと正確に言えば関係の欠如というものを考えることができない家族関係の欠如とは、何も指定しないのではなく、敵対関係を指定する

ヌエルのもとで暮らしたいなら、彼らを一種の親族として扱わねばならない。誰でも実のまたは仮の親族であるか、さもなくば、いかなる互酬義務によっても結びついていないよそ者、ゆえに潜在的な敵として遇せられるよそ者であるほかない。
オーストラリアの集団もまた、いまだかつて一度も訪ねたことのない野営地に近づくとき、よそ者はそこに足を踏み入れることなく、いくらか遠巻きに待機する。まもなくすると、長老の一団がよそ者に声をかけ、素性を確かめる。系譜をめぐる質問から、野営地にいる一人一人とよそ者との関係がはっきりしてはじめて、よそ者は野営地に入ることを許される。(略)私が原住民で、別の原住民に出会ったとすれば、この原住民は私にとって親族か敵かのどちらかであるしかない。敵であるなら、とりもなおさず相手を殺す隙をうかがわなくてはならない。でなければ、相手が私を殺すかもしれない。

この二つの実例が示すのは一つの普遍的な場面にほかならない。
「じつに多くの社会でじつに長い間、人間たちは極端な不安・敵意とこれまた極端な寛大さとを伴う奇妙な精神状態のもとで相手に接近したが、民衆的道徳観にかかわる多くの習わしには、中庸というものがない。全幅の信頼を置くか徹底的に警戒するかのどちらかで、武器を置いて呪いをやめたなら、その場での歓待から自分の娘、自分の財にいたるまで、すべてを与え尽くすのである」。
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婚姻と集団のもつ絶対性は、自然外圧と同類闘争圧力(縄張り圧力)を前提に形成されたと考えられ、集団とは何よりもまずはそれら外圧に適応すべく形成された闘争集団であり、その中に婚姻が内包されるという形で集団の基盤が形成されている。同時に婚姻関係の交換は集団間の連帯を強固にし、より高い適応を実現するという二重の機能を果たしているといえそうです。
次回は集団が集団として存在することを保証する(=集団統合のための)婚姻規則の中身に迫っていこうと思います。
お楽しみに


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