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中世・暗黒時代の悪魔とキリスト教

前回は、「西洋中世社会の実像:中世は身構えた時代」を扱いました。
海賊や山賊の勝組が作った国家であるギリシャ、ローマは強力な力で国を統合、秩序化した奴隷社会でした。しかし、力をなくしたローマ帝国は、秩序は乱れ再び周囲は皆が敵という不信、不安の世界に戻ってしまいました。
そして『暗黒の中世』は、殺害や略奪は当時のどの町でも一般に見られた「身構えたえた時代」であり、この周囲がみな敵であるという緊張状況が、現在の欧米人の精神構造に染み込んでいる事を知りました。
(日本での地震混乱時に略奪や殺人が起こらずに秩序が保たれているのが不思議だと感じる西洋人の大元にはこの精神世界があることが分かりました。)
では、その中世の時代、『暗黒の中世』で周囲が敵だらけの「中世は身構えた時代」において、キリスト教が広まって行く頃の、大衆は世界をどのように感じていたのでしょうか?
そしてキリスト教はどう対応したのでしょうか?
ぽっちっとお願いします。
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「西洋中世の男と女」聖性の呪縛も下で 阿部譲也著から、一般大衆の世界観を見てみます。
大衆は
人間の運命は星の動き(天界の力)で決まっている
超自然的な天界の力> デイモーン(後のデーモン)の力 > 人間の力
そして、デーモン(悪魔)を呪術師が操って悪さをしている
と考えていたようです。
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「西洋中世の男と女」~聖性の呪縛も下で~ 阿部譲也著からの引用

「古代人の宇宙観 呪縛師の活躍する社会」 から
古代世界では、不幸や不運の処理の仕方は非常に簡単明瞭でした、つまり、人間の運命は、星の動きによって決まっていると考えられていて、その展開の力に対して地上の力もあった。そして天界の星々に結びついていている人々もいたけれど、多くの人は身分が天界の星々に結びついている事に気がつかないで、地上の力に翻弄されている部分もたくさんあったのです。
天界の力と人間の力との間にはさまざまな力があって、地上に近いところにある悪しき力もあった。その地上の力とは、清潔とは到底いえない、悪魔の魔術を行使するいわゆる呪術師によって表されている、こういうふうに理解されていたのです。
いわば超自然的な天空界の力が誤った形で地上に適応されたものが呪術師の使う悪魔の力です。その力はダイモーンとも呼ばれましたが、後にそれはデーモン,アクマニナッテユキマス。ダイモーンは地上の力でありますけれど、そこには超自然的なちからがなにがしかありますから、誰かがダイモーンを操って利益を得ることができると考えられていたのです。
・・・・・・・中略・・・・・・・・・
人間と人間の対立関係の中で、呪術師が介入してダイモーンを動かして個人に不幸が生ずるという説明のしかたは否定され、不幸や不運の原因は、人間同士の対立にあるのではなく、人間世界の外にいる悪魔の誘惑によって生ずるものであり、本来、人間が原罪を負っているがゆえにそういう不幸が生ずるのだというのです

呪術師がデーモンの力を利用して悪さをしているという土俗的な考え方を改造して、キリスト教は悪魔そのものが人間を誘惑している(それは人間の原罪による)と説いたようです。
⇒だから、呪術師に依頼するのでなく、「教会に来て神に祈りなさい」
「生活の世界歴史 中世の森の中で」掘米庸三編 から抜粋

◆悪魔との出会い
学僧や博士たちの著述は別として,十二、三世紀、一般大衆の信仰の実相はどうであったか。なにぶん,異なる社会の遠い過去の心情傾向で、大部分実証を超える問題ではあるけれど、外形に表れた兆候を辿って行けば片鱗ぐらいは掴めるかもしれない。
当時、ラテン語で執行されるミサ聖祭の意味が、殊に儀式の一節一節の意味が一般に理解されなかったということはいうまでもない。直接信者に接触する末端の司祭たちが、高級な教育を受けてはいないのである。・・・・・・中略・・・・・・・
聖書は・・・・・中略・・・・・・、読めるものは皆無に近い、民衆の教わるのは,使徒信経と主の祈り、それに十一世紀以降の聖母の祈り、いわゆる天使祝壽の口授がほとんどすべてで,教義教理の体系的な解説など望むべきもなかったと言ってよい。
しかし、会堂の壁や祭壇の前面には絵があり柱にも豊富な彫刻がある。ロマネスクから
ゴシックへと移り行くこれらの造形は、いずれも聖書の一節、聖書の殉難でないものはない。1025年、アラスの教会会議の決議は、「素朴な魂たちは聖書の釈義を解しない、姿と形で知るのみである」と延べている。祝祭の日、僧たちはそれをさし、おそらくは自分の空想も交えながら、聖者の奇瑞を説き聞かせ、悪魔の誘惑を避ける為には聖者の助けを願い求めるように努めたのである。風雨にさらされて今にもこる、数多の彫刻は、かつて文盲の信者が文字によらずに読んだ聖書に他ならないのである。この意味で、教理にはくらくとも、彼らの信仰内容が貧困であったということではできぬであろう。
ただ、自然、想像や幻想に流れがちなのは、やむ得ない。ヨハネ黙示録に材をとって終末の異象を描いた彫刻図像が、圧倒的に多いのも、頷けないではない。救済の機会がどこにでもあるように、悪魔の誘いもいたるところにあった。
誘いどころではなく、悪魔そのもの、あるいはその配下たる悪霊が、行住座臥,人びとの間にいたのである、そもそも救いとは、悪魔に地獄へ連去られるのを逃れることに他ならなかったからである

キリスト教は、絵画や彫刻をもって物語を語り「悪魔に地獄に連れ去られる」事から逃れる為に、祈ることを勧めたのです。
膨大な宗教的な「彫刻」「絵画」さらには「教会建築」が、布教活動の道具でした。
さまざまな、「恐怖心を煽り⇒信仰を勧める」物語の実例を紹介します。
引き続き 「生活の世界歴史 中世の森の中で」掘米庸三編 から抜粋

p207
ギベール・ド・ノジャンの母は聖母の帰依あつく、生涯の後半をフリイの聖ジェルメ尼院で過ごしたほど敬虔な人物であったが騎士であった夫がウィリアム征服王との合戦で捕虜になったという報知が届いた夜、悪魔を見た。
「夜の静寂に、眠れぬままに横たわっていると、突如,『怨敵』そのものが現れて、母の上にのしかかり、その重みで母の命を搾り出そうとした、というのも悲傷に弱められた魂に忍込むのが、悪魔の習性だからである、母は衝撃で手足の自由を失い、ただ神の助けを念ずるのみであった。
その時、枕元で、美しく高い声で叫ぶ霊があった。『聖なるマリアよ、この女を救いたまえ』。疑いもなく、善き霊である、母は我に返って起き上がり、その時、大いなる家鳴りが生じた」。燈火を揚げて家人が駆付け、結局悪魔は退散した、善き霊も、母に向かって、「心して、善き女性たれ」と告げて、消えた。

引き続き 「生活の世界歴史 中世の森の中で」掘米庸三編 から抜粋

p210
悪魔や悪霊は、さまざまの形で出現する、ある僧の所へは「スコットランド人の姿で」現れた、道心を揺るがすことができなかったので「その後四十日の間生死の境を彷徨する程、医師で打ち据えて去った」。
ポーヴェー生まれのある男のところへは「早朝、二人ずれの、俗にデオナンディと呼ばれる者の姿で訪れた」。デオンディが何か、まったく不明である。
聖メダールの修道僧が池のほとりを歩いていたときには、三人の女となって出現した、「その中の一人が言うのが聞こえた。この男の体に入ろう、二番目がこれを抑えて、この男は貧しい、われわれを養いきれまい。すると三番目が、ユーグという坊主を知っている、太っているから、好都合だ、彼らはそのまま消えたが、その三人の女が熱病の姿をしていたことに、後になって重い至った」。
アルトワでは葬儀の祈りに「穴熊を捕らえて袋に押し込んだところ、実はそれが悪魔だった」。同じ地方で、仕事を終えた納付が流れで足を洗っていると「両足を掴んで水底に引き込もうとした

中世欧州のキリスト教の布教
周囲が略奪、殺人、強姦が当たり前の『身構えた時代』において大衆は不安の極地であったと想像できる。そして、その不安から大衆は『悪魔』はどこにでも現れて、地獄に連れ去ったり、女を犯したり、さらには肉体に入り込んでくるという恐ろしさの象徴と成っていた。
文字も読めなく教養もない中世の大衆が、社会不全~不安の象徴である「悪魔」を、キリスト教は「悪魔」の恐怖心を煽った。そして、彫刻や絵画で物語を語って、悪魔に連れ去られないように「救い」を求めて神に祈らせたのである。
土俗的な「デーモンとシャーマンの世界」

ローマ滅亡(無政府状況)の殺し合いからくる不全・恐怖心により「悪魔への恐怖心」が全開

キリスト教は大衆の「悪魔への恐怖心」を煽って、「救い」(=安心)を与えて布教した

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