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シリーズ「日本支配層の思想性と精神性」 第3回 ~日月神示と大本教の関係性~

前回の
シリーズ「日本支配層の思想性と精神性」 第2回 ~陸軍から信奉されていた「日月神示」~ [1]
で以下の問題提起がありました。
→実は日月神示の内容は決して「オリジナル」と言えるものではありません。より原点には明治期に創設された「大本(教)」と言う神道系宗教が存在しています。そして、この「大本(教)」も軍部と非常に強い繋がりを持っていました・・・
そこで今回は、その日月神示の原典と思われる大本教について扱って行きたいと思います。
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大本教と日月神示の類似性とは?
大本教と日月神示の原典であるならば、共通点や類似性があるはずです。まずはその辺りから押せてみましょう。この2つの類似点は以下となります。
・大本教、日月神示、どちらも“神より下ろされた自動書記”による神示を原典としている。
・そしてその神とは『艮の金神(うしとらのこんじん)』のことである。
・終末を預言しており、悪なるものが一掃され、善一筋の世界が誕生する旨を記している。大本教では「三千世界の立て直し」、日月神示では「三千世界の大洗濯」と内容は同じである。
・いづれも貧困からの“救い”と社会通念の破壊から“よりどころ”を求める潮流を背景に広がっている。
・多くの政治家、軍部との繋がりがある。
※ちなみに・・・
『艮の金神(うしとらのこんじん)』とは、どんな神様なのでしょうか?
『艮の金神』とは、日本に古くから伝わる陰陽道の言葉です。「金神」とは“祟り神”のことで、また「艮」(うしとら)とは東北の意味で、もっとも恐れられている“鬼門”(きもん)の方位です。したがって、「艮の金神」とは数ある金神の中でも、もっとも恐ろしい鬼門の方位にわだかまる“猛悪の祟り神”ということになります。ただし、何故この“猛悪の祟り神”の御触れ聞いたのかはわかりません・・・。
大本教とはどのような歴史を辿ってきたのか?
ではまず、大本教を開教した出口直(でぐちなお)と発展に寄与した出口王仁三郎を押さえておきましょう。大本教の歴史と発展について、月海黄樹『龍宮神示』 [3] より引用します。
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出口尚
・天保7年旧12月(1837年1月)現在の京都府福知山市で生まれる。
・大正7年11月6日、81歳で昇天
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出口王仁三郎
・明治4年旧7月12日(1871年8月27日) 生まれ
・昭和21年(1946年)2月7日昇天

大本教の教祖出口直は、復古的農本的な理想世界「みろくの世」の実現を約束し、病気治しを媒介に、近在の農民、市民に艮の金神の信仰を説いた。「筆先」には「きんの世」「われよしの世」として、資本主義社会がはげしく糾弾され、外来の文物にたいするつよい反発が一貫していた。権力者は「鼻高」とよばれ、終末観的な立替えの時節の到来による、その没落が予言されていた。
出口直の小グループは、開教6年目で金光教から独立したが、この復古的反文明的な小集団は、出口王仁三郎(1871~1948)を迎えて、明治末年から新たな発展の時期を迎えた。
王仁三郎は、もと上田喜三郎といい、京都府亀岡近郊の貧農に生れ、生活のために苦闘する間に、富者、権力者の横暴を憤り、権力への反抗心を燃やした。1898年(明治31)私的な紛争が契機となって、村はずれの霊山高熊山にこもって7日間の修行をし、宗教者としての道を歩み出した。高熊山での修行では、洞窟に坐っている間に、神使にともなわれて他界を遍歴したとしており、これは、修験道系の入山修行の伝統を受けつぐ行であった。
こののち王仁三郎は、身につけた霊能で病気治しを始め、静岡県清水の稲荷講社本部におもむいて、官学と習合神道糸の行法を学んだ。帰村した王仁三郎は、同講社所属の霊学会をつくり、鎮魂と幽斎修行を教えた。綾部での出ロナオの布教を知った王仁三郎は、1899年(明治32)ナオに協力して金明霊学会をつくり、翌年、出口直の五女・すみと結婚した。
金明霊学会の布教は、しばしば警察の干渉をうけたため、信者は減る一方となり、王仁三郎は内紛から一時、綾部を去った。ナオを始め幹部たちは、王仁三郎の開明的な言動に反発し、王仁三郎は「筆先」の現状打破と権力批判の主張には共感しながらも、これを神のことばとして絶対化することには、なお疑問をもっていた。
王仁三郎は、京都で神職の資格をとって、建勲神社の主典をつとめ、のち御岳教に転じて役員となった。明治末期の関西の宗教界を歩いて、さらに視野を広げた王仁三郎は、1908年(明治41)教勢拡大の構想を抱いて綾部にもどった。当時、大本教は逼塞状態にあり、出口直の周囲で、少数の幹部が細々と活動をつづけていた。
王仁三郎は、同年、大日本修斎会をつくり、教義の体系化に着手するとともに、活発な布教活動に乗りだした。大本教の教義はナオの「筆先」を基礎に、国家神道をはじめ多様な習合神道説を結びつけることによって展開し、大本教の神秘的な現状打破と救済のよびかけは、第一次世界大戦の時期に、広範な農民、市民の心をとらえた。
1914(大正3)年、<皇道大本>と改めた大本教は、大戦中から戦後に、鎮魂帰神の集団的神懸りの行法と、立替えの時節到来の予言を大々的に宣伝し、中小零細経営者、軍人、知識人の入信が相次いだ。
海軍機関学校教官で英文学者の浅野和三郎は、入信して綾部に移住し、教団の機関誌『神霊界』を主宰して、対外宣伝に力を注いだ。大戦末期には、王仁三郎は、みずから救世主・みろくであるとの自覚を抱くように也、立替えの時期の切迫を強調した。

大本教と日月神示がどこでつながっているのか?
それは単純に、そもそも日月神示を記した岡本天明は大本教の影響を受けているからです。実際、岡本天明は大正8年頃、大本に入信しています。また、天明は大本の中で『人類愛善新聞』の編集長にも就任、王仁三郎から直接、論稿の代筆を依頼されることもあったということから、大本の中ではそれなりのポジションだったことがわかります。
何故、岡本天明は大本教の布教ではなく、新たに日月神示を書いたのか?
日月神示は岡本天明の手で昭和19年6月10日、千葉県成田市台方にある麻賀多神社の境内末社で書かれました。日月神示は、内容をつぶさに比較検討すれば明らですが、出口ナオの『大本神諭』、王仁三郎の『伊都能売神諭』の流れを汲んでいることがわかります。
本来、この神示は大本内部で出されるはずであったと言われています。しかし、戦前における厳しい言論の統制下にあり、しかもいずれ徹底的な弾圧を受ける大本では、本質的な部分を伝えることが難しかったので、大本とは別のところ出す必要があったのです。よって、日月神示は、黒住教の発生から、天理、金光、大本へと至る霊脈の流れを完全に受け継いでいます。
本日はここまで。次回は大本教と軍部との繋がりについて見ていきたいと思います。

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