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シリーズ「日本支配層の思想性と精神性」 第7回 ~“神国”の思想の歴史~

シリーズ「日本支配層の思想性と精神性」も後半に入りました。
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前回の投稿 シリーズ「日本支配層の思想性と精神性」 第6回 ~中間まとめ~ [1] の通り、後半では「神国思想」と日本支配層の思想性・精神性の実態に迫るべく、歴史を遡って追究していきます。「神国思想」は一体いつから日本に存在したのか?どのような理由で生み出された観念なのか?日本支配層の歴史に踏み込みながら追究していきます。
と言うことで今回は“神国”の歴史についてまずは概観を俯瞰して見てみましょう。
応援宜しくお願いします。
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Wikipedia [3]に“神国”の歴史が簡潔にまとめられておりましたので、今回はそれを紹介します。
まずは平安時代から南北朝・室町時代まで・・・

平安時代以前
「神国」という言葉の初出は『日本書紀』の神功皇后(じんぐうこうごう)のいわゆる「三韓征伐(さんかんせいばつ)」の際、新羅王が皇后の軍勢を見て「神国の兵である」として戦わずに降伏したという記事である。これが後に対外的危機の際には必ず引用されて神国思想を高揚させる一因となったと言われている。
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平安時代以後、律令政治の発展による儀礼の深化とともに『日本三代実録』などの文献などに見られるようになり、源義経の「腰越状(こしごえじょう)」にもその行が見える。
大和政権は、本来、各々の有力豪族の連合政権であり、大王は豪族の頂点に過ぎなかった。各々の豪族は、独自の神話をもち、独自の神を祭っていた。ところが、大和政権が豪族連合政権から、大化の改新をへて、天皇を中心とした中央集権国家へと移行すると、天皇家の神格化を図るために、天皇家の祖先神である太陽神・天照大神と天皇家の神社である伊勢神宮を頂点とした、神々及び神社のヒエラルキーが確立した。このような体系を基にしたのが古代の神国思想である。
10世紀以降、律令体制から王朝国家体制に移行すると、貴族や寺社が荘園を拡大し始めた。有力な寺社は、自分たちが祭る神々を日本の神の中の頂点であることを宣言し、不輸・不入の権を行使し、自分たちの荘園を「神領」や「仏領」としていった。その結果、天皇家を中心とした神々及び神社のヒエラルキーは衰退していった。
また、平安時代前期からこの時期には、神仏習合思想が普及し、仏が日本の国土において、人々を救うために神々の姿をとった、という本地垂迹説が説かれた。このような社会・思想の変動によって、天皇の権威を頂点にした古代的神国思想は、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)を基にした中世的神国思想へと移行・変化していった。
鎌倉時代
ところが、平安時代末期より鎌倉時代にかけて末法思想(まっぽうしそう)や鎌倉新仏教の広がりによって現世を否定する思想が広がり、実社会と乖離した儀礼中心の政治が打ち続く戦乱によって存亡の危機に立たされると貴族社会を中心に皇室とそれを支える貴族社会の由来を神国思想に求める考え方が出現した。
更にこれに一大変革を与えた事件は、2度にわたる元寇(げんこう)が、いずれも後世「神風」と称される嵐によって撃退されたという出来事である。この嵐が伊勢神宮をはじめとする諸神社によって盛んに行われた異敵調伏の祈祷と成果とする喧伝と実際に戦闘を行った武士達が、元軍の集団戦法に苦戦して神への加護を求めていたという事実が、日本を神国とする認識を国内各層に浸透させる事となった。
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きままに歴史 元寇と高麗 [4]  からお借りしました
このため、浄土思想・鎌倉新仏教側もこれを取り入れていく方向に変化して行き、神々は仏に従属するとした「仏教の超越性」を唱えていた法華宗を含めて、日本の仏教は神々の加護によって初めて成立しており末法の世を救う教えも日本が神国であるからこそ成立したという主張に転換していく事になる。虎関師錬の『元亨釈書』の「大乗仏教は日本において完成した」という主張はその典型である。
南北朝・室町時代
更に、これを「大日本は神国である」という一つのフレーズで言い切った者が『神皇正統記』の著者・北畠親房(きたばたけ ちかふさ)である。
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親房は天照大神の正統な末裔である天皇によって日本という国家が維持されているという主張を簡潔に述べて、後世に影響を与えた。

本日はここまで。次回は戦国・安土桃山時代から現代までについて神国の歴史を紹介します。

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