- 共同体社会と人類婚姻史 - http://bbs.jinruisi.net/blog -

【世界の宗教から見える男女の性】-3.キリスト教②~救いようが無い「性否定」の人々の救いの宗教~

20110227_1711354.jpg
ブリューゲルとルーベンス 楽園のアダムとイヴ 画像はこちら [1]から
前回はキリスト教の成立と処女懐胎の嘘について扱いました。今回はキリスト教の性否定について追及します。
■前回のまとめ
 
マリアの処女懐胎は真っ赤なウソである→なぜそこまでウソをつかなければならなかったのか?
⇒当時は私生児であることは村の人は知っており、イエス自身もそれを否定するような記述はない。つまり、後に神学として布教していった神学者たちがイエスは罪を負わずに生まれてきた=神格化するためのこじつけに利用したと考えられます。
「イエスは罪を負わずに生まれてきた」と語られる「罪」とは何でしょうか?


■罪(原罪)とは何か?
  
「イエスは罪を負わずに生まれてきた」と語られる「罪」とは何でしょうか?
  

wikipedia原罪 [2] 
 
初代教会には原罪の教理について様々な見解があった。
  
2世紀のエイレナイオスは、全ての人類の頭であるアダムにおいてすべての人類が文字通り罪を犯したとした。テルトゥリアヌスは初めて、アダムとイヴから人類全てが受け継ぐものとして原罪を理解した。他方アレクサンドリアのクレメンスは、原罪は全ての人間が罪を犯すという事実を表す象徴であると主張し、原罪は現行罪の不可避性を表現するものと理解した。
 
受け継がれるものとしての原罪について詳細に説明し、「アダムから遺伝された罪」とし、両親の性交を遺伝の機会として解釈したのは、アウグスティヌスである。

 
キリスト教で語られる「罪」には実に様々な解釈がありますが、ここでは一気に割愛して、原罪についてご紹介します。wikipedia原罪 [2]から更に引用します。
 

神は楽園に人を置き、あらゆるものを食べて良いと命じたが(創世記2章15節 – 17節)、善悪を知る知識の木の実のみは「取って食べると死ぬであろう」として食べることを禁じた。しかし蛇にそそのかされた女が善悪の知識の木の実を食べ、女に勧められたアダムも食べた(創世記3章1節 – 7節)。ここで蛇は女に強制しておらず(強制できず)、女もアダムに強制しては居ないことが、女とアダムそれぞれ自身の意志によって犯された責任ある罪であることを意味するものとして言及される。

 
言いたいことは、全ての人間が罪を犯す、それはアダムとイブが罪を犯したことが性行為によって遺伝されている、と言うことのようです。
%E5%8E%9F%E7%BD%AA.jpg
人の罪を負って磔になった人 [3]無原罪で御宿りした人 [4]
その様に解釈したアウグスティヌスとは一体どんな人なのでしょうか?
 
■アウグスティヌス

 
wikipediaアウグスティヌス [5]
 
463px-Sainte_Monique.jpg
聖モニカと聖アウグスティヌス
画像はこちら [6]から
 

アウレリウス・アウグスティヌス(354年11月13日 – 430年8月28日)は、古代キリスト教の神学者、哲学者、説教者、ラテン教父とよばれる一群の神学者たちの一人。古代キリスト教世界のラテン語圏において最大の影響力をもつ理論家。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会・正教会・非カルケドン派で聖人。母モニカも聖人である。
 
アウグスティヌスは人間の意志を非常に無力なものとみなし、神の恩寵なしには善をなしえないと考えた。このようなアウグスティヌスの思想の背景には、若き日に性的に放縦な生活を送ったアウグスティヌスの悔悟

があったと言います。
 

アウグスティヌスは、自らの肉欲や快楽への弱さを自覚し、これと闘い、克服しようとし、でも連敗し続けた人物だ。彼はいつも「主よ、われに貞操を与えたまえ-でも今はまだいりません」とばかり祈っていた、という。(バーン&ボニー・ブーロー著/香川壇ほか訳『売春の社会史』筑摩書房)
 
15年間連れ添った愛人を棄てた時、彼女は彼に誓った-「今後ほかの男を知るまい」-そして、彼のかたわらに、彼の息子を残して、アフリカへ帰っいったそうだ。ところがそのアウグスティヌスは、2年後でなければ求婚の相手をわがものにできないため、(結婚相手の少女は、まだその年齢になってなかったらしい)待つ期間の長さに耐えかねて、婚姻そのものを愛するよりはむしろ情欲の奴隷となり、新たな愛人をこしらえたそうである。 (山田晶著『世界の名著 14』中央公論社)仄聞百話 [7]

 
何をもって「聖人」とされているのかは分かりませんが、女性に対する欲望が強くこれを自覚していたようです。
 
■キリスト教の性否定

 
そもそもキリスト教では性についてどのように考えていたのででしょうか?
 

性差別(Sexism) [8]
  
『カトリック百科事典』によれば、「肉体に関しても魂に関しても、女はいくつかの点で男に劣っている」。これは、聖トマス・アクイナスのこの問題についての意見をいくらか修正したものである。アクイナスは、すべての女は生まれながらに欠陥があり、母親の妊娠時に父親がたまたま病気であったか、弱っていたか、あるいは罪を犯していたためにできた「不完全な男」に過ぎない、と主張している。人間の卵子について何も知らなかった教会は、母親は子供の遺伝形質とは何の関わりもなく、霊魂を運ぶ父親の種子(精液)をまくための「土壌」として働くにすぎない、というアウグスティヌスとアクイナスの教えを説いた。こう言っているにもかかわらず、一方で聖職者たちは、本当の奇形児の誕生は父親の責任ではなく、性交中の母親の「激しく執拗な妄想」の結果であると主張した。
教父たちは本心からの女嫌い揃いだった。聖ヨハネ・クリュソストモスによれば、女を目にしなければならないために、男は「千の悪」に苦しみ、「女の美しさは最大の罠である」。クリュニーの聖オドは、女の罠にかかるのを拒んで語った。「糞のつまった袋に過ぎぬものを何を好んで抱かねばならないのだ!」。ウォルター・マップによると、「非常に優れた女(それは不死鳥以上に稀有な存在だが)でさえ、愛されると必ず恐れと不安と不断の不幸という厭うべき苦しみをなめることになる」。
 
確かにそのとおりであった。何世紀にもわたって聖書は女性差別的な意見を支持し、それらの意見はすべての聖職者たちによってくり返された。聖パウロによれば、「すべての男のかしらはキリストであり、すべての女のかしらは男である」(『コリント人への第一の手紙』11:3)。聖ペテロは『トマスによる福音書』の中で語っている、「女は生きるに値しない」。アレクサンドリアのクレメンスは、『エジプト人福音書』から次のようなキリストの言葉を引用している。「私は女のつくったものを破壊するためにやって来た」。彼はさらに、「すべての女は自分が女であると考えただけで差恥心を抱くべきである」と語った。
 
教父たちは、死と罪が存在するのは女の責任であるという説を、遠い昔に打ち立てた。アウグスティヌスは、原罪が永遠化するのは、結婚を含むあらゆる状況下で、男の肉体と女の肉体を結びつける「色欲」のせいであると告発する。キリスト教は、性交によっで懐妊した女から生まれでるが故に、ただ生きているということだけで人間は罪深いと公言した最初の宗教である。聖ヨハネ・クリュソストモスはすべてのキリスト教徒の父親に、息子に「女を寄せつけない決然とした精神」を教え込むように命じて、「母親以外の女との会話を許してはならない、女に会うのを許してはならない」と語った。

 
これらを読むと当時のキリスト教教父たちは「女嫌い」ではなく、逆に恐ろしく女好きで、性欲に対して全く自制が効かない人々、と言うように思われます。
 
■まとめ
 
キリスト教では、性交によって生まれただけで罪深い、ということのようです。
 
こうした考えが何故生じるのか、正直分かりかねる部分はありますが、想像するに古代キリスト教社会では性的なこと(性関係)を発端とする問題が多数生じていた、のではないかと思われます。多々起こった性的な問題の原因を人間の元からある罪として開きなおり(=元々罪深き存在である人間が過ちを起こすのは当然で仕方の無いこと)、だから神の赦しが必要、或いは、性関係は女性の誘惑によるもので男自身はむしろ被害者であるかのような言い逃れをした、と言うことかもしれません。
 
簡単に言えば、女好き→性関係を見境無く頻繁に結ぶ→問題が発生→女が悪い、人間が悪い(と正当化)→人間ではもはやどうにもならない(開き直り)→神の赦しを乞う、という構造としか考えようがありません。
 
こうした性的な女性に対する害悪視は、旧約聖書(ユダヤ教)からのもののようです。
 

彼ら(祭司)は淫行で汚れている女をめとってはならない。また夫から離婚された女をめとってはならない。祭司は神に対して聖であるから。(レビ記 21章)
聖書の学び 旧約 [9]

 

もし、人が妻をめとり、彼女のところにはいり(性交の聖書的表現)、彼女をきらい、口実を構え、悪口を言いふらし、「私はこの女をめとって、近づいたが、処女のしるしを見なかった。」と言う場合、その女の父と母は、その女の処女のしるしを取り、門のところにいる町の長老たちのもとにそれを持って行きなさい。その町の長老たちは、この男を捕えて、むち打ちにし、銀百シェケルの罰金を科し、これをその女の父に与えなければならない。彼がイスラエルのひとりの処女の悪口を言いふらしたからである。彼女はその男の妻としてとどまり、その男は一生、その女を離縁することはできない。
 
しかし、もしこのことが真実であり、その女の処女のしるしが見つからない場合は、その女を父の家の入口のところに連れ出し、その女の町の人々は石で彼女を打たなければならない。彼女は死ななければならない。その女は父の家で淫行をして、イスラエルの中で恥辱になる事をしたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。(申命記 22章)聖書の学び 旧約 [10] 

 
旧約聖書では、性交をした女性は穢れている、と考えれらていた様ですが、こうしたユダヤ教を都合よく利用しつつ人間イエスを救世主としたかった派生宗教であるキリスト教においても、イエスが普通に人間の女性から生まれたのではこうした罪や穢れを拭えない、ましてやマリアは婚前交渉の恐れさえある、と言うのでは誠に都合が悪かったのでしょう。
 
そこで「マリアは処女だった、イエスは神の子だ」という荒唐無稽な言い逃れをしたのではないでしょうか?
 
更にその後のキリスト教信者たちは女好きのだらしない男ばかりで性的な問題ばかり起こしていた、これを正当化する理屈が、人間には原罪がある、罪が存在するのは女の所為である、という言い逃れでした。
 
これら言い逃れに特化したキリスト教が西洋社会に広まっていくのは何故でしょうか?
 
キリスト教が国教化された際に禁止された女神ウェスタに仕えた巫女たちへの信仰に関連して以下の様な例もあります。
 

Wikipediaウェスタの処女 [11]
 
首都長官クィントゥス・アウレリウス・シュンマクスは、キリスト教の勃興期にローマの伝統的な信仰を守る道を探っていた人物であるが、こんなことを書いている。
 
我らが祖先はウェスタの処女のための法を残している。彼女たち神に仕える聖職者はまもられねばならず、また特権が与えられるとある。この恩恵は、両替商がはびこるまで侵されることがなかった。聖なる純潔をまもるためにあるものがあさましい人夫の報酬のための基金へとかえられてしまったのだ。

  
Vestal.jpg
 
ウェスタの処女 画像はこちら [12]から
 
 
ローマ帝国が隆盛を極め、次第に崩壊していく過程でキリスト教は国教の地位を得ます。聖処女への信仰を諦め性否定の宗教へと変っていく時代は、両替商が登場する市場化の時代でもあったようですので、性の混乱と市場の爛熟が平行する混沌の時代であったのかも知れません。
 
市場化の基底部には、性関係に対する罪悪視や異常に強い独占欲があり、それ故に性を発端とする問題が多発した社会状況があったのでは無いか?と考えられるのですが、如何でしょうか?
 
性関係における都合の良さだけでキリスト教が広まっていくのだとしたら、余りに短絡的で身勝手です。しかし、そうせねばならないほど当時の社会が混乱しきっていたのだとしたら…。
 
まさに妄想でしか救いようが無い状況だったのかも知れません。

[13] [14] [15]