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宗教からみた男女関係 ~「仏教」3 仏教の男女関係①

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新しく出家したタイの若者 [1]
この人たちは男女関係を禁止されている(のでしょう)。 
 
シリーズで展開しています「宗教から見える男女関係」ですが、今回は仏教における男女の性について扱います。
前回「日本の僧侶はなぜ妻帯するのか」についてご紹介しましたが、少し補足をしたいと思います。
先日法事で伺った寺の住職が、「明治政府の『妻帯勝手タルベシ』で日本の仏教は堕落した」と仰っていました。何のことかと調べてみたところ、明治維新の直後明治政府は神仏分離令などの太政官布告などを発し廃仏毀釈運動を扇動していました。
これに続く明治5年「僧侶ノ妻帯ハ勝手タルベシ」という布告を出し、その結果各宗派で表立って妻帯する様になりました。その結果日本の仏教は堕落した、というのです。
 
その住職が言うには「『勝手タルベシ』という言い方は実に巧妙で、「好きにして良い」というほどの意味である。なぜ、このような言い方をしたのか?」、とのことでした。
 
こうしたことも念頭に、今回から数回、仏教における男女関係について焦点を当ててみたいと思います。 


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廃仏毀釈 [2]
 
●僧侶ノ妻帯ハ勝手タルベシ 
 

明治5(1872)年、明治政府は「僧侶ノ妻帯ハ勝手タルベシ」という布告を出しました。これまでは、浄土真宗系を除く宗派の僧侶は、不邪淫戒によって、女性と交わること、妻帯を禁じられていました。しかし、実態としては他宗派であっても僧侶の妻帯はごく普通のことでした。 
明治政府によって公式に妻帯が認められたことで、僧侶はますます一般人との差がなくなりました。そして、寺院では住職の世襲が進みました。

 
ふつうのお寺 [3]
 
その結果どうなったかと言うと、
 

梅原猛は、もう一つ明治新政府が仕掛けた僧侶の妻帯が仏教衰微政策だと指摘する。仏教で妻帯を認めたのは、親鸞の浄土真宗だけであったが、明治新政府により、妻帯を認められるや各宗派ともそれを受け入れた。これにより、僧でありながら、妻を娶り子をなして、果ては自坊を子に譲り、継承するという俗人と変わりないライフスタイルを送っている。
 
これにより寺や坊は俗世を避けた出家者の居場所ではなく、俗世そのものになってしまった。

 
アバンギャルド精神世界 廃仏毀釈と僧の妻帯 [4]
 
果たして僧侶は妻帯すると堕落するのでしょうか?そもそも仏教では男女関係をどう捉えていたのででしょうか?
 
●仏教の男女関係
 
 
男女関係にまつわる事柄を幾つかご紹介します。
 
女犯 [5]
 

女犯(にょぼん)とは、原則として戒律により女性との性行為を絶たねばならない仏教の出家者が、戒律を破り女性と性的関係を持つこと。
 
女犯に対する刑
 
江戸時代、女犯が発覚した僧は寺持ちの僧は遠島、その他の僧は晒された上で所属する寺に預けられた。その多くが寺法にしたがって、破門・追放になった模様である。他人の妻妾と姦通した女犯僧は、身分の上下にかかわらず、死罪のうえ獄門の刑に処された。

 
女人禁制 [6]
 

仏教は、人間の欲望を煩悩とみなし、智慧をもって煩悩を制御することを理想としており、人間の欲のうち、最も克服しがたい性欲を抑えることを薦めてもいる。そのため出家者の戒律には、性行為の禁止(不淫戒)、自慰行為の禁止(故出精戒)、異性と接触することの禁止(触女人戒)、猥褻な言葉を使うことの禁止(麁語戒)、供養として性交を迫ることの禁止(嘆身索供養戒)、異性と二人きりになることを禁止(屏所不定戒)、異性と二人でいる時に関係を疑われる行動することを禁止(露処不定戒)など、性欲を刺激する可能性のある行為に関しては厳しい制限がある。
 
ちなみに在家信徒も、淫らな性行為は不邪淫戒として禁じられている(五戒の一つ)。また在家者も坐禅や念仏などの修行に打ち込む期間だけは不淫戒を守ることが薦められる。

 
以上のように、仏教の信者に対しては戒律により性的関係の抑制を勧め、僧(出家信者)においては刑罰(追放や資格の剥奪)が有りました。確かに釈迦の布教で出来た僧団では、集団生活を営む為の規則「律」が必要となり、この中に先の性行為の禁止(不淫戒)が定められています。
 
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僧団の写真 [7]
 
波羅提木叉 [8]
 

波羅提木叉(はらだいもくしゃ)とは、仏教の出家者(比丘・比丘尼)が順守しなくてはならない僧団(僧伽)内の禁則・規則条項(いわゆる具足戒)。
 
「律」(ヴィナヤ)の中核を成すもので、在家信者や沙弥(見習い僧)が守るべき「戒」は、基本的に五戒、八斎戒、十戒止まりだが、この波羅提木叉(具足戒)を授けられ、正式に僧団(僧伽)の一員となった出家僧(比丘・比丘尼)にとっては、当然この波羅提木叉(具足戒)も「戒」に含まれることになる。「戒律」とひとまとめに呼ばれるのも、そのためである。
 
内容別に、以下の8種類に大別される。
 
波羅夷(はらい) – 僧団(僧伽)追放の大罪。
僧残(そうざん) – 波羅夷に次ぐ重罪。僧団(僧伽)には残れるが、一定期間資格を剥奪される。
不定(ふじょう) – 女性と2人きりになること。比丘(男性出家者)のみを対象とする。上記内の罪を犯していないか嫌疑がかけられ、追求される。
捨堕(しゃだ) – 禁止物の所持、もしくは禁止方法での物品の獲得。懺悔が必要。
波逸提(はいつだい)- 様々な好ましくない行為。懺悔が必要。
提舎尼(だいしゃに) – 食物の授受に関する禁則。懺悔が必要。
衆学(しゅがく)- 服装、飲食、説法などにまつわる禁則。懺悔が必要。
滅諍(めつじょう) – 僧団内の紛争収拾にまつわる規則。懺悔が必要。

 
波羅夷罪 [9]
 

波羅夷罪(はらいざい)とは律典(戒律をしるした経典)によると出家者(僧侶)が必ず守るべき戒の4つを指す。
 
4つの教団追放罪
 
1「淫事を行うこと(淫戒)」 – 出家者でありながら、戒律や身分を捨ててあらかじめ還俗しないで、異性(または同性)と交わった際には、その罪を得る。つまり、基本的に出家者には結婚や性行為は認められず、それができない場合には自ら望んで還俗しなければならない。
2「盗むこと(盜戒)」 – 与えられていない物をとること。不与取とも。
3「人を殺すこと(殺人戒)」- 人を殺すことを指し、故意と過失とに関わらず罪を得ることになる。
4「宗教的な嘘をつくこと(大妄語戒)」 – 正しい覚りを得てもいないのに、自ら驕ることで「自身が仏陀である」とか「究極の覚りを得た」とか言い、仏教教団や、人心を惑わすような行為に及んだ場合には、その罪を得る。

 
僧残 [10]
 

僧残(そうざん)は、仏教で、比丘の守るべき具足戒の一部。波羅夷に次ぐ。13項目あり、「十三僧残」と称する。違反すると、僧団追放にはならないが、一定期間、僧としての資格を奪われる。許されるためには。20人以上の僧の前で罪を告白し、懺悔しなくてはならない。
 
・故出精戒 – 手淫を禁じる。
・触女人戒 – 女性に接触することを禁じる。
・麁悪語戒 – 女性に淫らな言葉を使うことを禁じる。
・歎身索供養戒 – 女性を誘惑することを禁じる。

・媒嫁戒 – 男女関係を仲介することを禁じる。
・無主房戒 – 広い家に住むことを禁じる。
・有主房戒 – 必要も無く転居することを禁じる。
・無根謗戒 – 根拠も無く悪口を言うことを禁じる。
・仮根謗戒 – 問題をすり替えて悪口を言うことを禁じる。
・破僧遺諌戒 – 破戒の指摘に対抗することを禁じる。ただし、三度までは許される。
・助破僧遺諌戒 – 破戒したことを誡めるのに対して他の者の邪魔をするのをいましめる
・汚家擯謗違諌戒 – 比丘が集落で暴行したのをいましめるのに対して、かえって誹謗するのを誡告する
・悪性拒僧違諌戒 – 悪比丘の自尊自負をいましめるのを拒否するのをいましめる

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ブータンの仏教寺院
まさに仏になるための修行の場…日本とは違いますね…。 
 
何やら徹底した「規制」ぶりですが…
 
「性的なこと」は本能の欠乏(=欲望)であり、生物としては当たり前のことでもあります。種の保存にも不可欠です。それをここまで規制するのは、よほど性に惑わされると集団(僧団)が破壊されるとの危機感を有しているのでしょう。
 
 ただ思うに、仏教の隆盛期はバリバリの私権時代で現実の苦悩と観念での救済、私権を争う現実の生活と成仏を目指して修行する日々を対比して考えてみると、やはり性的なものを重視すると修行から遠ざかる、ということでしょう。
 
 しかし日本では「勝手タルベシ」以前にも妻帯等は相当行われ居るらしく、戒律などにそれほど従っては居なかったようです(むしろ「勝手タルベシ」でより重要なのは、妻帯ではなく、世襲の一般化だったのかも知れません)。
 
 尤も当時(江戸時代若しくはそれ以前)の僧侶の婚姻がどういうものであったのか、実は良く分かりません。が、古代から中世にかけて僧侶とは所謂知識階級であり、天皇が奈良時代(710年~)には出家して僧侶となるなど特権階級化していた様子も伺えます。こうした出家僧侶は家督を譲った後の出家であったりするので、もはや戒律など何の意味も無かったように思えます。
 
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初めて男子で出家した聖武天皇 [11]
 
 インドや中国では重要であった戒律が日本では全く意味を成していないことが、仏教が内包する矛盾の一端であるように思います。 
 
次回、仏教の性的な事柄について更に見てみたいと思います。

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