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「共同体社会における生産と婚姻」その②(後編)~農村の自治(検地と刀狩による惣村の解体から兵農分離の近世農村へ)

 「共同体社会における生産と婚姻」について、具体的な追求するシリーズ第2回目(後編)です。前編では律令制度による中央集権~荘園制度~惣村の確立までを見てきました。後編では、惣村の解体から近世農村への変遷と、その自治組織について調べていきます。
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ラストサムライ [2]」の出陣シーン
同じ集落に暮らす農民が「お見送り」。地侍のイメージはこんな感じでしょうか?(注:ラストサムライの設定は明治維新です。)
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 「防衛」と「自治」を兼ね備え、発達していった惣村ですが、戦国大名による一円支配が強まると同時に、その解体が進んでいきます。

 戦国大名は権力の強化をはかるために,農村の直接的支配を志向し,在地の権力を否定して,侍衆を家臣団にくみ込み,知行武士にして城下町に強制移住させた。~中略~ 戦国大名のこのような志向の完成された形が,太閤検地をへて,幕藩体制によって形成された近世城下町と,近世郷村(農村)であり,これによって町と在の分離,地域分業の成立を生じたのである。要するに,近世の村の創出は,それ以前の農民結合を領主側が解体をめざして,新しい人と土地関係を創出しようとしたものである。(リンク [3]

 
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画像は「コチラ [5]」からお借りしました。
■「兵農分離政策」による農村の変化
 なかでも、地侍の囲い込みを強力に推進したのが信長です。信長は、兵農分離政策を実施し支配下の武士を農村から分離しました。これは武士を経済的に弱体化させることによって手懐け、その軍事力のみを純粋に特化させて自己の軍事力の強大化を図ったためと思われます。これにより、武士はその経済基盤であった土地と切り離され、一国一城の主から戦国大名の家臣というまさに侍(さぶらう・仕える人)になっていきます。
 信長の跡を継いだ秀吉も兵農分離政策を進め、有名な「太閤検地」と「刀狩」を行います。これにより、土地は封建領主ではなく、検地帳に登録された百姓(名請人)の所有となります。さらに、年貢を村が一括して納入する「村請(むらうけ)」が採用され一般的になっていくと、村内では役割分担に基づく役職が発生していきます。
 江戸時代になると武士達の多くは江戸へ連れてこられて幕府組織を形成します。他方、武士を排除することで農村はもっと純粋な形での自治農村となることになりました。
■近世農村の自治組織「村三役」と「五人組」
近世農村の自治に欠かせない「名主・組頭・百姓代」と言った村役人(村三役)や「五人組」などの組織について紹介します。
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画像はコチラ [7]からお借りしました
「皆の共認で運用する」村落共同体の自治組織(リンク1 [8])(リンク2 [9])より
『村三役(名主・組頭・百姓代)』

 名主(なぬし)は近世初期には、村で最も有力な名主(みょうしゅ)百姓が世襲した。中世以来の国人領主やその親族の系譜を引くものが、その地位に着いたのだ。そして近世初頭においては村を越えた惣名主という職が置かれ、これも中世の惣村の代表の系譜を引き、有力名主百姓が世襲した。しかし名主は幕府や藩との折衝に携わったし、村の治安維持の元締めでもあり、個々の百姓に対する年貢負担の分配の差配の元締めでもあった。これが一つの家に世襲されることは、権力との癒着に繋がる。
 そこで登場したのが組頭であった。これはその名が示すように、五人組の長であり、しばしば五人組を幾つか束ねた集落単位の組の長であり、中世以来の惣村の年寄り衆の系譜を引いていた。つまり組頭は村共同体の年寄りとして名主を補佐し村政を合議によって運営してきた者たちであったが、彼らを組頭として認定することで、村政を公的にも合議体制に移すこととなったのである。そしてこれに伴って名主は、組頭の中から選ばれるようになっていく。世襲制が崩れて行ったわけだ。18世紀も中頃のことである。
 また百姓代は、新田開発によって耕地が拡大し、名主百姓の下人や百姓の次三男が独立して、一人前に耕地を持って年貢を負担する百姓の数が増えるとともに生まれた村役人であった。本来この役職は、「惣百姓代」であり、名主百姓だけではなく小前百姓も含む百姓全体の利益を図るために設けられた役職であった。
 先に見たように、村政を執行する名主は世襲制から選挙制に移行したとはいえ、それは相変わらず名主百姓という有力な百姓に限られていた。つまりそれ以外の小前百姓と呼ばれた村人は、実際には村政に関ることができなかったのだ。百姓代は、このような小前百姓の利益を代表して、名主・組頭を監視する役目として置かれ、百姓全体の投票で選出された役職であり、17世紀後半には登場し、享保期の18世紀前半に定着した。
 こうして村政は次第に、百姓全体の意向を反映するものに変化し、村の決定機関である寄合における意思決定も「入れ札」という投票方式による多数決となっていった。従って近世後期になると、有力百姓の間で選挙または持ちまわりで選出されていた名主も、百姓全員の入れ札で選出されるようになっていく。いわば村の自治は拡大し続けたのである。

『五人組』

 五人組は幕府や藩が組織したものではなく、村が組織したものである。これは村といっても、いくつかの集落に村が分かれて存在することから、それぞれの集落の核になる名主(みょうしゅ)百姓を中心に村人が組みをつくり、村政を担ってきたことに由来している。そして五人組が年貢に関して連帯責任を持つのは、村の自治が年貢の村請けによって成り立っているからであって、領主との間で取り決めた年貢高を村として納めるのであるから、家に分配された年貢高を払いきれない家があれば、他の裕福な家が肩代わりして年貢を納めるのは、共同体としての村の役割であったからであり、五人組が村共同体の下部機構だったから五人組で連帯責任を負ったのである。また、村の家が没落して田畑を耕作できなくなることは、その分の年貢負担が他の者の肩にのしかかってくるのであるから、村として各家の存続に便宜を図り、没落した家の再興を図っていくのも、村共同体としての機能であった。そしてこれは犯罪の防止という治安機能についても同様である。
 村はそれ自身として治安の権限を有していた。これは村が幕府や藩の支配の下部機構であったからではなく、村が自立した「生活共同体」であったからだ。

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(カムイ伝より)

 こうして村は、村の秩序を維持するために自前の掟を持ち、自前の自衛のための治安組織を持っていた。幕府や藩は、村の自治機能を利用したに過ぎないのだ。
 また年貢も幕府や藩が一方的に押しつけたのではなく、村との契約でなりたっていた。そしてその年貢の実際の各家の負担は村組織が行い、独自に割り振り帳面を作って割り振り、そして村として年貢を領主のもとに納めたのである。

 「名主・組頭・百姓代」と言った村役人(村三役)や「五人組」などの組織は、幕藩体制の中で上位下達的に整備されたものと考えられがちですが、いずれも村落共同体の自治の中で生み出されてきた制度のようです。
また、名主・組頭・百姓代の”三役”はいずれも村の統合役であることは変わりませんが、それぞれの登場背景は異なり、文字通り村落共同体を「皆の共認で運用する」為に整備されてきたものと考えられます。

 前回「農村の自治(荘園から惣村へ)」(リンク [11])から、農村の変遷を見てきましたが、惣村~近世農村へとその形態は変わっても、集落内では一定の自治が保たれ、『共同体』が途切れずに存続してきたことがわかります。支配する「お上」が変わっても「下々」の共同体は変わらず、「お上」はそれを利用することによって穏便に支配する、これが日本の特徴なのではないでしょうか。
 そして、近世農村で確立した自治組織や風習は、日本の人口の大多数を占めた農村で戦前まで(地域によってはほんの最近まで)継続してきました。こうしたことが日本人に本源性を色濃く残し、共同体意識を失わない独自の感性を保ってきたのだといえるのでしょう。

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