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「共同体社会における生産と婚姻」~その③ 日本の農業概観;農業の主役は農民か領主か?

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田染荘 画像はこちら [1]から
 
「共同体社会における生産と婚姻」を追求するシリーズの3回目です。前回は、惣村の解体から近世農村への変遷と自治組織について見てきました。
今回は日本の農業を時系列的に概観し、農業のあらましを整理したい、と思います。


■日本の農業が始まった弥生時代
  
日本に水稲農業が伝わったのは、弥生時代(紀元前5世紀中頃)で、まずは大陸から北部九州に伝わりました。その際、どのような役割で農業を営んでいたのでしょうか?
 
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弥生時代の農業。画像はこちらから 
 

水稲農耕の知識のある者が「族長」となり、その指揮の下で稲作が行われたのである。また、水稲耕作技術の導入により、開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行した。
 
大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生したとされる。このような争いを通じた集団の統合・上下関係の進展の結果としてやがて各地に小さなクニが生まれ、1世紀中頃に「漢委奴國王の金印」が後漢から、3世紀前半には邪馬台国女王(卑弥呼)が魏に朝貢し、倭国王であることを意味する親魏倭王の金印を授けられた。

 
wikipedia [2]
 
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吉野ヶ里遺跡 画像はこちらから
  
稲作を教えたのは大陸系の渡来人、労働力として日本の古来の住民たちが呼ばれたのでしょう。しかし、その目的は渡来人たちの食料を得ることですから、当時の日本人にはその必要性も良く認識できなかったのではないでしょうか?
  
■更なる開墾=墾田永年私財法(平安時代から鎌倉時代) 
743年に墾田永年私財法が発布されます。以下はその原文の現代語訳です。
 

(聖武天皇が)命令する。これまで墾田の取扱いは三世一身法(養老7年格)に基づき、期限が到来した後は収公していた。しかし、そのために農民は怠け、開墾した土地が再び荒れることとなった。今後は三世一身に関係なく、全ての場合において、永年にわたり私財としてよいこととする。

 
wikipedia [3]
 
ここで述べられているように、人々は余り開墾に熱心ではなかったようです。そもそも、三世一身であっても永年私財であっても、一般の人々には余り意味無かったのではないでしょうか?只それでもこれを契機に荘園なるものが登場し、有力寺院や豪族が土地を大規模に所有するようになります。
 
ならば私財法で言う;”>「農民」(※原文では農夫)とは一体誰のことだったのでしょうか?
 
当時は灌漑技術も殆ど無かったので、自然水利が利用できる丘陵地帯に棚田として発達しました。
 

今を去ること千数百年の昔、国東半島には、六つの郷がおかれていました。 田染荘(たしぶのしょう)小崎地区(当時は小崎という地名も定かでない)は、一面鬱蒼たる原野で、山々より集めた水を蓄え、小崎川がゆっくりと流れていました。
 
当時は、律令制度の中で田染郷の平坦部は公地公民として農耕が行われていましたが、743年墾田永年私財法の成立によって、開墾した水田の私有が認められるようになって以来、この地を豊かな水田地帯にしようと雨引神社周辺(赤迫)より、幾多の人々や宇佐神宮の力によって、この土地の地形を利用して様々な曲線を描きながら不揃いな形をした水田が開発されていきました。
 
やがて開墾された水田は、宇佐八幡宮が支配する(中央に領主がいる一般の荘園とはやや異なった)荘園となり、ここに田染荘が誕生しました。

 
豊後高田市観光協会 [4] 
このように自然の地形を利用した水田開発(先の記事では平端部で公地公民があったとされたいますが、水利技術に乏しい時代にはむしろ少し山間の水が自然と流れる地形に開墾されたする説も有ります)の、実際の担い手(農夫)は、
 

これらを作るための労働力は,貴族や大寺社が抱えていた奴婢,それに口分田を捨てて逃げ出した浮浪人,あるいは近くに住む農民の力を使いました.一般の農民には賃金が払われましたがその多くは収穫された「お米」で支払われていました。一般に直営の荘園ではほぼ全額が荘園主の収益となりましたが,一般の農民の力を借りて経営している荘園では1/5に収益が減りました。

 
貴族から武士の時代へ [5]
 
農民以下は雇われているので実際に彼らが開墾したとしても土地は彼らのものにはなりません。彼らを使用した貴族や大寺社が土地の私財を認められたに過ぎません。
 
この時代既に地主と生産者は別々に存在していたのです。地主には有力な寺が多かったようです。そもそもお寺を営む僧侶は大陸に学んだ特権階級です。天皇や貴族の為に祈祷を行うだけでなく政治にも口を出す「知識特権階級」であり、大陸系出自(若しくはその系譜)が大半を占める貴族の一部でした。
 
支配階級が人々を雇って開墾を進めたのは、自ら働かずに税として食料を徴収する必要性と、その所領が、生産力(=経済力)=勢力の基盤であったからなのでしょう。例えば、天皇家、藤原氏などが支配の中心であった平安時代、末端貴族の平家は武力と共に生産力=経済力を養い氏族集団として力をつけ、次第に天皇に近づき自らが権力を得るようになります。
 
荘園を所有する大寺院、武門は、中央政府に対して租税の免除も迫って認めさせるものも現れました。その結果、荘園制度は次第に統制を失い、同時に武士が力をつけ武家が政権を担う鎌倉幕府、室町幕府の時代になって行きます。
 
このころ武家の一部から荘園の管理者として守護や、地頭(後の国人)が任命されていきます。
 
■武家社会の農業~一揆から戦国大名へ(室町、南北朝、戦国時代~江戸時代)
  
名(名主;みょうしゅ)は、その前進である田堵(たと;荘園経営者として公領では国司の下、荘園では領主の下)が百姓と団結して国衙領である荘園の税収の仲介をした役職です。また税の単位として国衙領を再編したものが名(又は名田)です。その後室町時代に地頭(武士の職の一つ)が領地管理を行うようになり名主は衰退し、荘園も名主も室町時代の太閤検地により消滅します。
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荘園の支配構造に地頭が登場。画像はこちら [6]から。
  

そうした中で、百姓らは、水利配分や水路・道路の修築、境界紛争・戦乱や盗賊からの自衛などを契機として地縁的な結合を強め、まず畿内・近畿周辺において、耕地から住居が分離して住宅同士が集合する村落が次第に形成されていった。このような村落は、その範囲内に住む惣て(すべて)の構成員により形成されていたことから、惣村または惣と呼ばれるようになった(中世当時も惣村・惣という用語が使用されていた)。
 
南北朝時代の全国的な動乱を経て、畿内に発生した村落という新たな結合形態は各地へ拡大していった。

 
wikipedia [7]
 
因みに農民の活動と思われがちな「一揆」も正しくは、
 

国一揆は南北朝時代、室町時代の領主層による領主権の確保を目的とした連合形態(一揆)を言う。

 
wikipedia [8]
 
と有るように、一方の領主階級では、国人(地頭から発した武士の階層。領主となり、その後大名化していく)や守護(国司を吸収した武士の階層。大名職であり、同じく戦国大名化していく)などが軍事共同体を組織して、幕府(中央政府)に対抗します。国人も守護も幕府が任命した職ですが、幕府に対する独立の意識も強くその後戦国大名となって所領を支配します。
 
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戦国大名勢力図。画像はこちら [9]から 
実は一揆は領主階級だけでなく、惣村にも刀や槍などの武器が大量に保有され、一揆となっていたようです。前回触れた「刀狩」はこれらの一揆を抑える為のもののようです。
 
wikipedia 
 
公領であった荘園が太閤検地で消滅し、惣村が出来、一方荘園を管理していた守護や国人は荘園を解体して一円を支配し、藩を作って大名となって行きます。その後戦乱が始まり、各地の大名は領内の独自の生産力を向上させる為大規模な灌漑や農業支援などを行い、中央政府(朝廷や幕府)に対する地方国家である藩を形成して戦乱を生き延びようとします。この結果幕藩体制と言われる中央と地方の二重統治の構造が出来上がりました。
 
その頃領内の村では、惣村を継承し年貢などを村請していました。そのような村では名主(なぬし;庄屋ともいう)が百姓の代表として年貢を管理するようになります。但し、名主は大名の家臣で有る場合も多く、世襲されたりもしていました。
 
前回、
 

名主(なぬし)・組頭・百姓代」と言った村役人(村三役)や「五人組」などの組織は、幕藩体制の中で上位下達的に整備されたものと考えられがちですが、いずれも村落共同体の自治の中で生み出されてきた制度のようです。 また、名主・組頭・百姓代の”三役”はいずれも村の統合役であることは変わりませんが、それぞれの登場背景は異なり、文字通り村落共同体を「皆の共認で運用する」為に整備されてきたものと考えられます。

 
「共同体社会における生産と婚姻」その②(後編)~農村の自治(検地と刀狩による惣村の解体から兵農分離の近世農村へ)

 
と、述べました。
 
名主(なぬし)の成立した村請制の時代は、領主である大名とその家臣である名主(なぬし)以下百姓「階級」が存在していました。更には領主である大名も中央政府に対する地方自治の首長であり、幕府に対する自治性を有していました。このように幕藩体制と村請制は、幕府―藩―村というそれぞれの階層において上位に対する自治性を有していることになります。
 
荘園から幕藩体制まで、農民たちは領主を支える生産者で有り続けました。又、荘園の解体後に領主となった大名は、農民を支配すると同時に保護し、生産力(経済力)を高めて幕府に対抗する有力大名へと成長していきました。
 
ここまでの流れを年表にしました。
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■農業の主役は誰か?
    
何れの時代にも農民と言う生産者と、土地を持って農民に耕作させる領主階級が存在します。
 
農民たちは、一貫して自らの土地を有していません。領主は、貴族、寺院、武門から守護、国人、大名へと変遷します。しかし、彼らに食料を供給し続ける農民は土地も財産も持たずただ生産に明け暮れるだけです。領主と農民の関係は実は余り変わっていないように見えます。しかし、農民の活動、惣村の出現、惣村にも一揆があったこと、名主(なぬし)の存在、など、荘園時代とその後ではかなりの違いが有るようにも思います。特に藩主=大名は自らの領地を安定的に保持する為、農民に対しても一定の自治を認め、更には開墾、灌漑、治水などの土木作業を大名自身が起案して領内の生産力を高めようとしたことが伺えます。
 
このように考えるとやはり生産の主役は農民です。幾らと地を持っていても耕作する人々が居なければ、何の役にも立ちません。そして、農民自身が相応の活力を維持し続けることが、安定的な暮らしを実現する方法です。
 
その際、「私財を許す」という墾田永年私財法は彼らの活力にはならなかった様です。次第に荘園は廃れ、大名など藩主が農民たちの代表の意見を聞く、大名だけでなく農民も一揆を構成する、など、比較的自治を認めて石高を実現する後の各藩の取り組みは必然だったでしょう。そうしなければ誰も主君の為に農業などやるものがいなくなってしまうからです。
 
かつては口分田などから逃げ出していた農民も、次第に年貢を受入れ生産に精を出す用になったようです。農民たちは、戦国時代以降、諸藩と幕府の力関係が重視される中、やはり地方の自らの国が生き残っていくには生産が大事という考えにもなっていたのでしょう。やはり主役は生産者自身であったと思います。
 
以上が日本の農業を概観した状況です。
さて、貴族や武士の婚姻が父系であったのは良く知られますが、土地や財産を持たない農民たちの婚姻とはどのようなものだったのでしょうか?
(続く)

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