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「共同体社会における生産と婚姻」~その⑤ 村落共同体における男女役割とは?

みなさん、こんにちは 😀
「共同体社会における生産と婚姻」を追求するシリーズ第5回目です。
前回記事から諸所の事情で随分と間が空いてしまいましたが、今回記事では、先回記事で扱われた農村の婚姻様式と男女役割について、更に掘り下げて追求してみたいと思います。
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古い農村の家
画像はこちらからいただきました「京都府 ~美しい丹後」 [1]

 日本の村落共同体における男女役割

前回記事で「村の中では、奥に行けば行くほど母系の村内婚、近親婚のような形態であった」「その背景には、農業生産の主な担い手は男ではなく女であり、生産者として重視されたのは女性だった」「その結果女は実家に止まり男が婿入するようにしていた」とまとめがありました。
農業生産の担い手に関して見て見ると、古来より日本では田植を行うのは若い女性の役割とされ、田植えを行う女性は「早乙女」と呼ばれていました。(旧暦の五月に田植えをすることから「五月女」とも書く)
では、女性が農業生産の主な担い手であったとすると、男性の役割は何だったのか?
この村落共同体における男女の役割について、民俗学者、宮本常一氏(1907~81。昭和初期から戦後にかけてフィールドワーク調査を実施。武蔵野美術大学教授)の著書「女の民族誌」に詳しく書かれていたので引用します。
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庶民の歴史のなかで、ほとんどあきらかにされていないのは女性の歴史である。人口の半ばは女であった。それにもかかわらず女についての記述は少ない。では女は無視せられていたかというに口頭伝承の大半の役割をひきうけていたのが女性であった。家々の伝承にしても、それは女性によって語りつがれたものが多い。関東・東北地方のように父系家族制のつよいところでさえ、家の伝承は多く女によってなされている。女が伝承者であるならば平安朝の女性のように文字を持ってもいいはずだが、文字を持つ機会はきわめて少なかった。とくに男の世界と女の世界にはいろいろの点で差が見られ、男の生活の場が多く村であったのに対して、女は家であった。労働も家族的生産については男女ともに働いたが、村夫役のような仕事になると、それは男の仕事とされた。
伝承は村里生活を中心にしてなされるものが多く残る。つまる伝承は村の共有知識であることが必要であった。しかしそういう場へ女の出ることが少なければ、おのずから女についての伝承は少なくなる。その上家々のなかでつたえられる伝承は、村一般の伝承になることは少なかった。
男と女とはその作業に差があった。そこでまず女が何を分担して来たかを見ていく必要がある。みんながいっしょになってやる家族的な生産にしても労働の分担には男女の区別があった。農作業にしても耕起や砕土は男の仕事であるが、種まき、田植えは女が主になった。その他の生産や生活のなかに男女の作業の区別がはっきり見られる。

上記引用によると、農村共同体における男女の生産役割は以下のように整理されます。
  男 生産:耕 起・砕 土(土木作業) 生活の場:村(村夫役・村里伝承役割)
  女 生産:種まき・田植え(実質生産) 生活の場:家(家 事・家内伝承役割)

面白いのは、男女の「生活の場」が男:村、女:家と表現されている点です。
言い方を変えれば残存する母系性集団としての単位集団(家)の課題は女が担い、単位集団が集まった集合体(村=社会)としての集団課題=統合課題は男が担っていたと言うことが出来ます。

 男の集団統合課題

 以上のように、男が担ったのは大きく土木作業=力仕事と集団統合課題とまとめることが出来ますが、力仕事はイメージがしやすい一方で、(村落共同体の)集団統合課題は具体的内容が解り難いというのが正直なところです。
この集団統合課題の具体的内容は、同じく宮本常一氏の著書「忘れられた日本人」において記録されている「寄りあい」について読むと解り易いと思いますので、以下、引用します。
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農村での寄合の風景

姓を異にした者があい集って住む場所には村の中で異姓者の同業又は地縁的な集団が発達して来る。そういう社会では早くからお互いの結合をつよめるための地域的なあつまりが発達した。この集まりを寄りあいといっている。寄りあいのもっとも多いのは宗教儀礼にちなむものであるが、その外にもいろいろの村仕事の際にもおこなわれている。
 この寄りあい方式は近頃はじまったものではない。村の申し合せ記録の古いものは二百年近いまえのものもある。それはのこっているものだけれどもそれ以前からも寄りあいはあったはずである。七十をこした老人の話ではその老人の子供の頃もやはりいまと同じようになされていたという。(中略)
 三日でたいていのむずかしい話もかたがついたという。気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。話といっても理屈をいうのではない。一つの事がらについて自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういう事なのであろう。
このような協議の形式はひとり伊奈の村ばかりではなく、それから十日ばかりの後おとずれた対馬の東岸の千尋藻(ちろも)でも、やはり古文書を見せてもらうのに千尋藻湾内四カ浦の総代にあつまってもらったことがあり、会議がどれほど大切なものであるかをしみじみ知らされたのである。(中略)
 日本中の村がこのようであったとはいわぬ。がすくなくとも京都、大阪から西の村々には、こうした村寄りあいが古くからおこなわれて来ており、そういう会合では郷士も百姓も区別はなかったようである。領主―藩士―百姓という系列の中へおかれると、百姓の身分は低いものになるが、村落共同体の一員ということになると発言は互角であったようである。(中略)
 対馬ではどの村にも帳箱(帳簿や書き付けの類を入れておく箱)があり、その中に申し合わせ覚えが入っていた。こうして村の伝承に支えられながら自治が成り立っていたのである。このようにすべての人が体験や見聞を語り、発言する機会を持つということはたしかに村里生活を秩序あらしめ結束をかたくするために役立ったが、同時に村の前進にはいくつかの障碍(しょうがい)を与えていた。

以上のように、男達は村内の課題や対外的課題の方針を出すために寄りあいに集り、伝えられる伝承の内容に照らし合わせて方針決定を行っていました。方針を出すためには、何日もかけて徹底的に話しあったといい、このような寄りあいによって村の秩序を守り、村を統合していたと言えます。
その他、男達が担った課題としては、例えば水利権の調整や隣接する村や所属する藩との利権 調整などがありましたが、これら村の運営・調整・交渉課題は主要に年齢や経験が上位の「乙名(長老・宿労・労中・年寄)」が担い、若衆と呼ばれた若年層は、警察・自衛・消防・普請・耕作などの治安課題・労働課題を主要に担いました。このように、年齢階梯によって具体課題内容は違ったものの、総じて男達は村落集団をまとめ、秩序を維持する課題を皆で担っていたと言えます。

 女が担う生産課題とシャーマニズム

次に女が担った生産課題の中身について見てみたいと思います。
同じく宮本常一氏の「女の民族誌」から引用します。
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五月女による田植え風景の再現

五月をサツキとよび、田植えする女をサオトメとよび、田植えはじめをサビラキ、またはサオリといい、植えしまいをサナブリまたはサノボリというところから見れば、サは稲のことではなく田の神であったらしいのである。(中略)
 かくのごとく田植えが古い神事であってみれば、女の奉仕はむしろ当然であった。女が早乙女になるには古くは山にはいっていわゆる山あそびをしなければならなかった。これで山の神を身につけたのである。(中略)
そうして田植えのすんだ夜はサナブリ祝いがなされ、田主の家の庭で庭おどりをしたというのは神エラギすなわち神をなぐさめたものであった。かくて今日までなお田植えは女性の管理になっている。

上記にあるように「田植え」は古くから続く神事であり、女性が管理を行っていました。
そこには、やおろずの神(=精霊)と繋がり、集団に豊穣と安定をもたらす女性のシャーマン(巫女)的役割が残存していると言えます。

古い日本においても一族の祭る神はこれにかしずくものが神がかりする女であったようである。(中略)
 事実山々の祭祀を女性が司っていたことは柳田先生が『女性と民間伝承』でとかれているところで、農夫木樵(きこり)の類が山中に入って美しい女性を見かけた話の各地に多く分布しているのは古い時代の祭祀の思想がなお今日に残っているがゆえんであると思う。その美しい女の多くは水のほとりにいて機(はた)をおっていたというように語られているのは、神の祭祀に美しい水の必要であったためでこれによって身を清めたのである。山の神に対して海の神にも女性が多かった。(中略)
 さて山の神海の神は女性であったがゆえに女性が仕えたのではなく、女性が仕えたために多くが女性化されたとみるべきである。それは彼女らが神がかりによって演ずる口承文芸がそのまま第一人称をもってなされたからである。彼はこういうことをした、というように語るのではなく、私はこうしたと語るのである。
 かくして神に仕えるもの自身も、自分が神を祀るものであるか、それとも自分が神自体であるか分からなくなっている。とにかく神と人との区別はつかなかったようである。かくのごとくして神を迎え送っていたのである。

日本の共同体社会において、生産とはやおろずの神々(精霊)によってもたらされる恵みを得る行為であり、だからこそシャーマン(巫女)として神々と繋がる女性達が豊穣を祈り、その生産行為を担ってきたと言えるでしょう。
他にも、女性達はシャーマン的役割として、家を護る神である火の神=囲炉裏等の管理や、恵みを神に供える行為としての食物の調理、酒(今日のような大掛かりな醸造ではなく、濁酒の生産)や餅の製造も担っていました。

 まとめ

 以上見てきたように、日本の村落共同体の中では、男女の役割が明確化されていたと言えます。
 中間でもまとめていますが、再度まとめると【残存する母系性集団としての単位集団(家)の課題と神々に豊穣を祈る生産役割は女が担っていた】【単位集団が集まった集合体(村=社会)としての集団課題=統合課題と集団の秩序を守る役割を男が担っていた】とまとめることができます。
 この男女の役割共認があってこそ、村落共同体社会が維持されてきたと言っても過言ではないかもしれません。
さて、今回は村落共同体(農村)の男女役割に着目して来ました。
次回は、この男女役割共認の礎となる、農村における婚姻様式・性生活について詳しく見てみたいと思います。
それでは、また次回よろしくお願いします 😀

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