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「共同体社会における生産と婚姻」~その7:日本の農村は、世界でも稀な『共同体』だったのはなぜか?

◆みなさん、こんにちは。
「共同体社会における生産と婚姻」を追求するシリーズ第7回目です。
◆集団性に長けた日本の和合の文化は、【農村の共同体】がその始まりだとよく言われます。
日本の水耕農業などの村落は、村が共同資産(入会地、鎮守の森など)を持ち、共同作業を取り決めるなどや、裁判権も持ち自治組織形態を取っていた。このような「村落共同体」で運営されていた集団統合の機能を持っていのは、世界的にも稀であったようでです。
では、日本の農村は、なぜ村落共同体だったのでしょうか?
中世時代、封建制度の下で中国・欧州・日本とも、農奴や荘園制度など同じような制度があったように歴史教科書に書かれてあります。「中国」「欧州」とも共同体の農村だったのでしょうか?
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中国の農村はバラバラの個人が集まっているだけ?
中国や欧州の農村には、村落共同体はなかったのか? [1]

中国で周代までは、氏族共同体があった。しかし、段階的にバラバラに崩壊してしまったようです。
◆殷 :神制政治 →奴隷制 ・邑(氏族集団)
◆周 :封建制   →領地拡大の限界 →土地の細分化→邑が分解し家族制へ
◆春秋・戦国時代 →鉄製農具と牛耕→商業及び貨幣経済→大土地所有者・豪族の発生→個人主義に
■中国の氏族共同体の崩壊の原因は、上記のような歴史経過があります。
しかし、その最大の原因は、侵略部族による既存集団の崩壊だと思います。
中国は、侵略部族によって大帝国が滅びるたびに、侵略武力集団が国内を荒らしまわり無政府状況となるという大混乱の時代を繰り返します。
【春秋時代】→【戦国時代】→秦→漢→【三国時代】→【五胡十六国時代】→ 【南北朝時代】→随→唐→【五代十国時代】→宋→元→明→清
【】印が混乱期です。その混乱の激しさだけでなく、その多さにもびっくりします。
その混乱期の度に、邑(氏族集団)の地元文化が破壊されてきたのでしょう。


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【秦始皇帝陵及び兵馬俑】焚書坑儒:秦の始皇帝は、儒教の書物を焼き払い、反対する儒教者を皆殺しにしたという。
唐末期には、中国の本源集団が完全に崩壊してしまいます。

◆氏族共同体が、家族制度により分解。
◆家族制度が、商品経済の発達で、個人主義になる。
◆段階的崩壊の氏族共同体が、度重なる侵略部族の攻撃で氏族集団が分解・離散。
◆唐末期に、南北朝以来の貴族階級が全滅。新興の「形勢戸」が新たな小作人を編成(=人工集団の村)。
◎中国の農民は、共同体を早くして崩壊されて、侵略~乱世のたびに何度も移民を繰り返し、土地にも付かない、集団にも付かない、自分たち少人数の仲間しか信じないという意識が形成されていったと思われます。中国人は大集団の仲間を作るのが苦手なのです。
その昔、中国で近代化の国家革命を目指そうとした孫文が「中国人(漢人)は砂のような民族」と砂のようにバラバラで自己中心の国民性を嘆いたと言います。



中世ヨーロッパの村落共同体とは、支配権力による「強制的に作られた共同体」だった。
教科書には、中世欧州の三圃式農業は、集団で役割を決めて共同で耕作するなど「村落共同体」を形成したとかかれてある場合もあります。
しかしそれは主体的な自治などない、強制的な人工集団でした。
中世ヨーロッパの農村:支配権力による「作られた共同体」~農業システム「三圃制」と農村運営「共同体規制」について~

◆【共同体規制】
三圃制耕作法以前は二圃制耕作法が行われており,村落共同体の耕地を二つの耕圃に分けて,一つを穀物播種地として冬(秋)蒔地と春蒔地にわけ,もう一つの耕圃を体閑地としていたが,西ヨーロッパでは7,8世紀から11,12世紀にかけて,3圃制耕作法が普及するようになり,毎年の穀物播種面積が2分の1から3分の2に増大して当時の農業生産の発展に寄与することとなった。
しかしいずれの耕作法にしても,それを運営してゆくためには,耕圃の交互の休閑・家畜の共同放牧,さらに数頭の牛や馬に曳かせる犂隊の編成と,それによる犂耕などに共同作業が多く,一定の村落共同体規制が必要であり,村落共同体を構成する農民たちは,所領関係を越えた村落共同体としての規制に拘束されており,自由で独立的な保有地経営は許されなかった。


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【フランドルの暦6月】
欧州では中世に効率的な耕作方式(三圃式)が発見されました。領主は自分の稼ぎを増やす為に、バラバラだった耕作地を集約し、農奴たちを一箇所に集めて、強制的に収穫効率の高い三圃式農業をさせたのです。
その結果、これまでは、各々の奴隷にバラバラに耕作させていましたが、この三圃式の耕作にしてからは、機能的な役割分担が必要となった為に、一箇所に集めて強制的に集団ルールを定めて共同作業をさせたのです。
農奴が、主体的に農村を作ったのではなく、強制的に制定されたルールに従わさせられての集団生活です。
支配者からすれば、収穫効率を高くする為に、農奴に集団生活をさせたのが当時の農村でした。つまり、農奴はあくまで支配者の「奴隷」だったのです。

日本は本源集団を継続し続け、間接的支配の下で、自治集団を形成した。
日本の農村は、自治集団の「共同体」だった。
日本の水耕農業などの村落は、村が共同資産(入会地、鎮守の森など)を持ち、共同作業を取り決めるなどや、裁判権も持ち自治組織形態を取っていた。このような「村落共同体」で運営されていた集団統合の機能を持っていのは、世界的にも稀であったようでです。
日本で「村落共同体」が成立できるのは、日本独特の統治構想があったのです。
日本の統治構造は、専制支配ではなく共同体 より

日本の統治構造は、これまで西欧と同じく封建的なものとされてきたと思う。しかし、現在の大多数の日本人があたかも単一民族のように自らを認識する背景には、明らかに融和な統治構造が過去にあったことを伺わせる。地方行政を負かされ任地の在地農民などと融和すること、皇族、朝廷に変わる武家階級に対して「御恩と奉公」として互恵関係を結ぶこと、主君といえども家臣団の支持があって成立することなど、日本独自の統治構造、社会関係が有るように思われる。


日本社会には、欧州や中国のように、絶対的な「支配者」がいません。
日本の「支配者」は、みんなの支持があって始めて成立する「身分」なのです。
表層的には、中国・欧州の支配者と同じように見えますが、実態は皆から委託されて集団統合の役割を担っているいるのです。
欧州や中国では、支配者はどんな無理を言っても絶対的支配者なので許されますが、日本では皆から統合課題を委託された「役割」なので、理不尽な統治をしていると交代させられてしまいます。
江戸時代に日本に来た欧州人が、将軍が非常に質素な生活をしており、平民が飢えておらず清潔な生活をしている事に驚いたと書いています。
歴史教科書から、「農村の発生」を「共同体の形成」と言う視点でまとめ直してみると、
8世紀頃は、大陸文化の「国家」の直接支配にて農地を統治しようとする。
「班田収受法」「郷戸」「墾田永年私財法」

しかし、地方に広まる前に、あっという間に農地は、国家から地域における豪族の荘園の配下(大衆農民は、その集団形態のまま)に収斂。

その後に、武力に対する自衛なども農村集団で行う。国家支配と言っても農村からの税の徴収は名主などから行うという間接支配。
つまり、共同体の農民集団は、そのまま存続し続ける事になる。

そして、鎌倉時代には、
『鎌倉初期の荘園・公領での屋敷はまばら(散居形態) → 地縁繋がりで自然発生の村を形成(自主的・自治的な惣村)』
この自然発生的な村(ある程度の規模の集団)が、これまでの「共同体」意識を継承して惣村となる。
つまり、
欧州や中国では、他部族との略奪闘争により、本源集団が払拭されてバラバラの奴隷になってしまいます。集団は、その後の知らない者たちの再編成です。それに比べて、日本は一貫として、本源集団を継続してきており、村落を自治集団で運営している。藩や国家は、防衛(安全)や治水などの役割を担って、税を徴収するが、間接支配であり、中国や欧州のように皆殺し~集団崩壊に至ることはほとんどなかった。

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