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日本語の成り立ち~渡来人が縄文語を習得、稲作と共に伝播

先日の実現塾 [1]にて日本の歴史を学んだが、その中で日本の言語はどのように成立したのかという点は興味深かった。

渡来人の歴史を振り返ってみると、
・縄文時代
 32000年前頃~:寒冷化に伴いバイカル湖の狩猟民がサハリン経由で日本に移住。旧石器時代の中心となる。
 14000年前頃 :スンダランド水没~周辺地域へ南方モンゴロイドが拡散。日本にも漂流民がたどり着く?
 4000年前頃  :長江大洪水で文明消滅。日本に江南人が流入(江南人渡来第一波)
 2900年前頃  :佐賀の菜畑で日本最大級の水田遺跡
・弥生時代
 2500年前頃  :呉越戦争で呉が敗北、呉人は朝鮮半島、九州に流れる(江南人渡来第二波)
 2300年前頃  :越が楚に敗北、越人が朝鮮半島、日本海側に流れる(江南人渡来第三波)
 2220年前頃  :徐福が老若男女3000人を率いて日本に亡命、古代豪族の基盤となる。  

・弥生時代以降、渡来人は日本の地元民と混血融合し、勢力争いを続けていく。
 縄文人×江南人⇒弥生人
 縄文人×高句麗系⇒東の古墳人 ・・・・高句麗系=ツングース族
 弥生人×百済系+伽耶系⇒西の古墳人

このように、渡来人と縄文人の融合により日本人が形成されたわけだが、言語はどのように形成されたのか。
実現塾においては、
日本語は文法がアルタイ語で、語彙がスンダランド系との類似点が多い。
当時の広東語も縄文語も「てにをは」の無い言語と考えられる。また、広東語には漢字があった。
渡来人が現地人に融合したこと、言語は母親がまず教えることから、基本は縄文語をベースに渡来人が縄文体質に合わせていき、縄文人の上位層から漢字を学び身に付けていったのではないか、との仮説が提起された。

今回、日本語の成り立ちについて調べてみたところ、
日本語はオーストロネシア語とツングース語の混合言語であり、3000年前のかなり早い時期には混合言語として完成していた。
弥生時代、水田稲作農耕技術をもたらした渡来人は、予想以上に高度な日本基語を習得し、北部九州方言「倭人語」をもって勢力を拡大し、西日本一帯に文化圏を確立、これにより倭人語は「日本祖語」といえる標準的存在となった、とする説がありました。
時期的にかなり早い気がしますが、北九州(倭国)発のクニの成立と、稲作の伝播と、日本語祖語の成立とは整合性がありそうです。
「日本人の源流を探して」 [2] より紹介。

■■■旧石器時代、当時のホモサピエンスがどの程度文法的に完成された言語を使っていたのか、、、
既に高度な剥離技法などを使う石器が発明され、やがて人類史上始めて、化学的変化を伴う「土器」という製品を生み出した人々が、言語とは呼べないレベルの言葉しか使っていなかったとは考えられない。
なぜなら、高度な石器や土器の製作技術やノウハウを、多くの人びとに広め、次世代に伝えていくためには、所謂“見様見真似”だけでは困難であり、かなりのレベルの言語的説明や、やり取り(質疑応答)をしなければならなかったと考えられるからである。すなわち、言語もそのレベルに達していたと考えるのが、自然であろう。

 
■華北文化センターからナイフ形石器文化を伴って、プリミティブな原始ツングース系言語が朝鮮半島や日本列島(津軽海峡まで)に展開した。20000~30000年前のことである。

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■ 12500~13000年前ごろ、荒屋型彫器を伴う、クサビ形細石器文化が、極東方面に怒涛のように押し寄せた。彼らは原始アイヌ系言語を使っていたらしい。彼らは冷涼な気候を好み、日本列島ではあまり西日本地域と混交することはなかったのに対し、北部朝鮮では、ツングース系朝鮮語と混合したようである。安本美典の分析では、アイヌ語と日本語より、アイヌ語と朝鮮語の方が近い関係にある。
崎山は、アイヌ語とツングース語とは系統が異なるというが、文法的、音韻的特徴に大差はない。(華北とバイカルの両文化センターは、もともと親子関係にあったから言語的にも大差はなかったと思われる。)

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■6000年前、縄文前期のころ、同じツングース系の言語であった、古日本語と古朝鮮語は方言のレベルから別の言語に分裂したと、言語年代学から推測される。
古日本語には、東アジアにおける位置的関係から、照葉樹林文化(雑穀)や古栽培民の文化(芋)、熱帯ジャポニカを含む文化などを持つ、様々な民族や集団が断続的に流入し、多くの南方系言語の語彙をもたらした。

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筆者は、古日本語(日本基語)は、かなり早い時代に完成していたと考える。少なくとも、完成し尽くされた言語といわれる、サンスクリット語の成立時期、3000年前には、すなわち新年代観でいっても、水田稲作農耕技術の到来以前に、日本基語は混合言語として既に成立していたと考える。

なぜなら、1万年以上に及ぶ縄文文化が崩壊し、全く新しい、農耕技術や社会制度をもたらした弥生渡来人の故郷が、上代日本語から全く推測できないという、異常としか言いようのない現象は、日本基語がよほど完成され、語彙も当時としてはそれほど借用しなくても済むほどに十分であったから、渡来人の言語を農耕技術関連語として以外必要としなかった、という理由しか説明が付かない。
しかも、農耕技術関連語をセットとして持ち込んだ、渡来人の出自集団(おそらく長江下流域の民族集団)は、現在においては既に消滅してしまったらしい。

また、安本美典は、ビルマ語系の身体語や植物語は、稲作文化と一緒に入ってきたというが、たとえそれが、日本語の語彙としては例外的な単音節語だとしても、身体語や植物関係の言葉が、いわば基礎語彙が、日本基語成立後に借用されることなどあり得ない。
さらに、安本はインドネシア系言語は大和朝廷が、全国を統一する過程で、古くから居住していたインドネシアンを服従させる過程で、取り込んだものだろうと言っているが、これもあり得ない。なぜなら、オーストロネシア系言語の影響が著しい、崎山理のように日本語の語彙の80%がオーストロネシア系ということであれば、1300年~1700年前の出来事とはとても考えられない。このころは、既に中国語から政治や文化に関する言葉を、借用する段階に入っていたと考えるのが常識であろう。

 

■弥生時代、水田稲作農耕技術をもたらした渡来人は、予想以上に高度な日本基語を習得し、いわばその北部九州方言「倭人語」をもって勢力を拡大し、西日本一帯に遠賀川式文化圏を確立する。これにより倭人語は「日本祖語」といえる標準的存在となった。
中部・関東地域でも農耕文化を受け入れた集団は、日本祖語を受け入れる。一方、旧東日本地区で、あくまで狩猟採集文化に拘った集団は、東北地方に後退し、独自の文化・東日本縄文文化を継承していく。

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■邪馬台連合王国からヤマト王権が成立する時代、南部九州にも新しい文化を拒否して、南西諸島にスピンアウトした集団がいた。彼らが使っていた方言がより独立色を強め、琉球語(琉球方言)となった。
一方、日本祖語は中国語から、文字という記録媒体を手に入れ、文化や思想語を大量に日本語の中に取り入れ奈良時代に「上代(上古)日本語」が成立した。

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