- 共同体社会と人類婚姻史 - http://bbs.jinruisi.net/blog -

学校教育:男女共学か別学か・・・江戸時代の場合

前回投稿では、学校教育や男女関係の問題、現況について整理しました。(リンク [1]
男女共学か別学を考えるにあたり、まずは明治から始まる近代教育の以前、江戸時代の教育がどうであったかを整理してみます。

◆藩校
江戸時代中期までは、武士の学問は、平和な時代の余技、教養といった程度に考えられていたが、中期以降は、現実の政治や経済の困難を
克服するために教育を重んずる方向に各藩が傾いた。
藩校は天明・享和期(1781〜1804)に最も多く設けられた。
それは、商品経済の発展によって武士階級全搬の財政難が深刻化し、綱紀粛正のためにも、現実の問題の解決のためにも、子弟の教育を重
視するという方針に転じた。
教育内容は、基本的には儒学中心である。
為政者階級としての道徳的人間を形成することが目的であったが、少しずつ、経済実用の学を重んずる傾向に変わっていった。

◆郷学
江戸時代中期以降になると、庶民教育のために「郷学」も設立した。
郷学は、もともと家臣の学問や武芸を向上させるために設立された。言い換えれば、藩校の分校のようなものである。
しかし、1745 年(享保の改革期)以降は庶民の教育へとその目的が広がった。
その中で、民間の有志や町村(あるいは町村組合)が設立する郷学も増加していき、その形態は多様化した。
このような藩校や郷学の多様な展開を支える基礎となっていたのが寺子屋である。

◆寺子屋
その歴史は室町時代後期までさかのぼり、寺院教育を母体として発生した。寺子屋の名の由来はここから生まれた。
明治政府(文部省)が1892年に編纂した『日本教育史資料』には、明治初期における全国約15,000の寺子屋と1,500の私塾が確認できる。
ただしこのデータは調査の不十分さが指摘されており、実際にはさらに多くの寺子屋が存在していたことが明らかになっている。
このように、士・農・工・商の身分制が確立していた江戸時代の教育は、武士と庶民の教育も大きく 2 つに区分されていたが、教育の近代
化によって2つの教育がしだいに融合化されていったのである。

普及したのは、藩校と同じく18世紀以降である。
商業が盛んになり、交通が盛んになり、交通が進み、生産や商取引に契約書、帳面類、書簡などの必要が著しく生じた。
幕府の側でも、さまざまな事柄を伝達するのに文字を用いて効果を上げようとした。
諸法度、御触書、御高札といった法令を広く領民に知らせるためにも、広く庶民が読み書きの能力を高める傾向を歓迎した。
そのため、最初は江戸、大阪といった大都市で設けられた寺小屋も幕末期には、天保年間(1830−1844年)頃からは、農村や漁村の隅々まで
開かれるようになった。
寺子屋で先生役を引き受けた師匠は、必ずしも特定の知識階級ではない。数の上では、庶民が最も多い。
町年寄や隠居と呼ばれた人、庄屋や組頭にような農漁村の支配層、次いで多いのは、武士。また僧侶や神官も寺子屋を開いた。
一番見逃すことが出来ないのは、寺子屋が庶民が自らの必要から生み出した自然発生体としての組織であって、幕府や藩の側の要請に基づくものではないことである。

◆寺子屋に見られる男女別学
江戸時代の寺子屋の普及によって、現在の学校の基礎が築かれた。では、その学習は男女に差が見られるのだろうか。
これを紐解く手がかりとして、江戸時代に使われた教材に「往来物」がある。
現代の教科書の役割を果たし、様々な手習に対応するため、江戸時代中期頃から出版が盛んになった。
その内容も様々であり、読者に合わせて編集され、その種類は数千種にのぼる。
往来物の代表的なものには、『消息往来』(1843年刊行)、『庭訓往来講釈』(1845年刊行)、『商売往来』(1830~1844年刊行)などがある。

そして、数ある往来物の中には女子用に編集されたものがある。例として、『女今川』、『女庭訓往来』などがある。
これらは、もともと男子用として広く使用されていた往来物を女子用に編集したものである。
女子用に掲載された往来物の内容には以下のようなものがあげられる。
「女今川・女庭訓往来・百人一首・女大学・婚礼の次第・年中行事・出産に関すること」などである。
これらの内容からわかるとおり、男子が学問や実用的な職に関する知識を学ぶのに比べ、女子は日常生活に必要な知識や、女子的教養が主な内容である。
つまり、家庭内の女子、妻としての教養が重視されていたことがわかる。

男女の学ぶ内容の違いは、寺子屋の男女の就学率にも大きく影響していた。
女子が教育を受ける目的が家庭内において必要な教養を身につけることに偏っていたため、女子の教育が家庭内で行なわれるケースが少なく
なかった。しかし、江戸時代後期になるにつれ、地域によって差はあるものの、女子教育の必要性が高まったことから、女子の寺子の数が増
加したと考えられている。特に江戸では女子の寺子数は男子の約9割と、極めて高い就学率だった。

ほとんどの寺子屋で、男女は同じ部屋で手習を行ない、まれであるが、女子限定の寺子屋も設立された。
現在、寺子屋で手習をしている絵が描かれている書籍や襖絵が数々残っている。
それらには、同じ部屋に男子と女子とに分かれて学習している様子や男女が分かれて遊びをしていたことなどが読み取れる。
男女共学が普通で、比率としては、全国平均では男100:女25、ただし、江戸では男100:女89。
神田、日本橋、浅草などの庶民が群居するにぎやかな町、卸問屋や株式組合が盛んに活躍している地域では、男女比はほとんど同じだった。

江戸時代の社会は、武家社会の主従関係が基礎となっていたが、これが庶民の家庭にも及んでいた。
親子関係、夫婦関係も主従関係と同様に見られていた。そのため男子と女子の教育は区別して考えられていたのであろう。
一方、私塾は藩校や寺子屋とちがい、身分上の差別が少なく、武士も庶民もともに学ぶ教育機関であった。
現在の私立学校の前身あるいは母体となっているものも多い。

◆若者組による教育
伝統的な地域社会において、一定の年齢に達した地域の青年を集め、地域の規律や生活上のルールを伝える土俗的な教育組織である。
若者衆、若者仲間、若者連中など、また集まる場所を青年宿、若衆宿,若者宿,若勢宿,寝宿,泊り宿,若宿など、地域によっても様々の名
称がある。類似の風習は日本のみならず、世界各地の伝統社会に存在する。
近世において、地域社会の構成員を教育する場として確立したと考えられ、地方では明治以降も多く引き継がれていたが、公教育の普及に伴い衰退・消滅していった。

若者組への加入・脱退の決まりは大きく2つに分けられる。
1つは、その村の男子全員が加入するというタイプで、多くの場合は結婚を機に脱退する。
もう1つは各戸から1人(長男)だけが加入するというタイプで、多くの場合結婚ではなく一定の年齢に達すると脱退するというものであった。
いずれの場合も、一定年齢(10代半ばくらい)に達すると加入する。
若者組を卒業したものは、地域社会で一人前のメンバーという事になる。

年長者がリーダーとなり、後輩たちに指導を行った。
若者宿、若衆宿などといわれる拠点があり、そこに集団で寝泊りする場合も多かった。
村内の警備や様々な作業を行ったり、共同で集まり親睦を図った。
特に祭礼では、若者組のメンバーが子供組を指導して中心的に運営を行う場合が多かった。
また交際上必要となる飲酒・喫煙の指導、さらに村内の恋愛、性、結婚を管理する側面を持ち、リーダーが各自に夜這い を指示して童貞を
捨てさせることも行われた。男性の若者宿に対して同じ年頃の女性が集まる娘宿の存在する地域もあり、この場合双方の交流によって結婚相手を探すという意味があった。

◆◆江戸時代の教育
基本となるのは農業であれ商業であれ、生産を中心とした共同体集団の存在である。
子供たちも生産活動を担いながら、共同体における役割として「若者組」にて年長者から学び、生産の必要な実学を「寺子屋」で学ぶ。
若者組では男女別々に、寺子屋では壇上一緒だが学ぶ内容が役割に応じて男女で異なっている。
男子は生産を中心に担う存在として実務に関する内容を主に学び、女子は共同体を内から支える存在として日常生活の知識や共用を学ぶ。
つまり、共同体の一員としての役割が明確にあり、その役割を担うべく「若者組」では年長者が教育し、「寺子屋」では自主的に学ぶ。
そこには当然、男女の役割の違いもあり、男として女としての学びに加え、性関係をも取込んだ教育システムとして存在していた。

鍵となるのは、前提としての集団の存在、中心にある生産課題・役割といった点だろう。
このような視点で、次の明治以降の近代教育を振り返ってみる。

[2] [3] [4]