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古代・中世の商工業(座と問丸・馬借・土倉・酒屋)

『新しい歴史教科書-その嘘の構造と歴史的位置-この教科書から何を学ぶか?』「第2章:中世の日本」批判19 [1]を要約しました。
●商工業の発展の結果としての座の成立

律令国家は調や贄という形で品物を献納させていたが、10世紀ごろ、律令国家の統制力が緩み、この体制は崩壊。それに代って、有力な寺社や貴族が自分の荘園に住む商人や職人を「神人」「寄人」という形で隷属させ、免税特権を与える代わりに品物を献納させた。朝廷も商人や職人を「供御人」という形で役所に隷属させ、免税特権を与える代わりに品物を直接献納させた。

この「職(しき)」を得るということは、朝廷や貴族や寺社に隷属する事で特権を得て、営業の独占をはかるということだったのであり、主として神聖なものとしての朝廷・貴族・寺社に隷属することによって行われていた。この「職人(しきにん)」の中には、荘園や公領の荘官や地頭などの武士も含まれており、荘官・地頭などは、それぞれの地の管理と年貢の徴収を仕事とする「職(しき)」を得た人という意味であった。

中世前期の商工業・農業の発展とともに、商人や手工業者の朝廷・貴族・寺社からの独立は進み、彼らは自治組織「座」を結成し、朝廷や貴族・寺社へ「座役」としての銭を払う代わりに、免税特権や、朝廷の役所や貴族・寺社が支配する地域における自由通行権と営業の独占権を得るようになった。座の結成とは商人・手工業者が政治的にも独自性を強め、自治組織として動き出したことを意味する。そしてこの時代は、農民・商人・手工業者・武士の身分は分離しておらず、座は村を単位としても結成されていた。

●武家権力の登場の結果としての座の成立

商工業者が朝廷・貴族・寺社から独立していった、もう一つの理由が武家権力の登場である。
京都は朝廷・貴族・寺社の支配地が複雑に入り組んでおり、各支配地で朝廷・貴族・寺社が検断権(裁判・警察権)や徴税権を持っていた。京都に住む商工業者は、朝廷・貴族・寺社の隷属民として「供御人」「神人」「寄人」の身分を得て、商業上の特権を保持してきた。彼らは集落単位でまとまりその集団を座と呼んでいた。この場合の座は、神に仕える人々の集団を意味する座であり、商業上の特権はそれに付随するものであった。

室町幕府は所領が少なく経済的基盤が小さい事もあって、全国的商工業の中心である京都にその経済的基盤を置いた。
室町幕府は徐々に京都における直接的支配権を掌握し、検断権と徴税権を掌握し、商工業者には役銭を直接課税するようになった。その結果、京都でも朝廷・貴族・寺社による商工業民の支配は廃絶し、商工業民は神に仕える隷属民ではなく、純粋に利益を追求するようになった。さらに戦国時代になると、戦国大名は領国内で朝廷・貴族・寺社の支配を受けてその隷属民として商業上の特権をもっていた商工業者をその支配から切り離し、大名に直属した商工業者集団へと組替えていった。

●都市の形成と特権的大商人(問丸・馬借・土倉・酒屋)の形成

室町時代に登場した運送業者(問丸)や金融業者(土倉・酒屋)は、特権的大商人であり、彼らの営業範囲は広く、朝廷や幕府、守護大名にも癒着していた。問丸は鎌倉時代に、全国の港や津に居住し、渡船や商人宿を営み、年貢物や商品の中継・保管・輸送・販売に携わった業者のこと。年貢の保管・輸送などの業務を朝廷の役所や貴族に代って請け負う業務のことを「問職(といしき)」「問丸職(といまるしき)と呼んだ。彼らは室町時代になると、配下に廻船人という海の運送業者や馬借などを組みこみ、広域的に独占的な営業を行った。

馬借も単なる運送業者ではなく、有力寺社に隷属した商人である。近江の大津・坂本、山城の淀・山崎・木津、越前の敦賀、若狭の小浜などが集住地として知られ、特に近江・山城の馬借は京都に米を搬入する米商人でもあり、かつ叡山・日吉社の「神人」であり、その地域における物資の運送の独占権をもっていた。
しかし、馬借は獣(馬)に関わる仕事であったからか次第に賎視され、室町時代ともなると「非人」に等しい扱いを受けるようになった。室町時代の土一揆において馬借が最も過激な戦闘集団となっていったのには、このことが背景にあるかもしれない。

土倉も有力寺社に隷属した金融業者である。寺社に納められた初穂などを元手に人に貸し付け、利子をとる業者として登場した。叡山・日吉社の「寄人」として僧形のものが多く、土壁の倉に質物などを保管する事から土倉と呼ばれた。平均的な利率は月に6~8%と高いが、彼らは金貸し業だけではなく、荘園の代官となって年貢徴収や荘園経営にも当たり、室町時代になると、日明貿易にも携わるものも出た。彼らも朝廷や貴族・寺社と繋がり、その業務を請け負う事を代償にして利益をあげていた特権的大商人である。

酒屋も有力寺社(ex.叡山)と結びつき、その「寄人」として酒の醸造と販売の独占権を持っていた。そして、金融業にも進出した。

土倉や酒屋は朝廷や貴族・寺社の所領からの年貢の徴収を請け負い、これら権門の財政を事実上担う存在になった。室町幕府も京都の土倉・酒屋に役銭を課税してするとともに、彼らを幕府の勘定方に任命して、その財政を担う官僚として組織していった。

これらの特権的商人は大都市に集住し、その財力を背景に、他の商人や手工業者を統制する存在になっていった。納屋衆として自治都市の運営にあたった有力な商工業者には、問丸などの特権的商人が多かったのである。

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