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江戸時代の銭湯は男女混浴。出会いの場所としての期待も大きかった☆

江戸時代の銭湯は、混浴だったという話はよく知られていますね。

その時代の庶民にとって、銭湯はただお湯につかりにいくだけでなかったようです。

休憩スペースで将棋や囲碁などを楽しんだり、男女の出会いの場としても期待されていて、女性たちも恥ずかしがることなくせっせと出かけていた様子が伺えます。

なんだか大らかな時代でしたね~☆

リンク [1]より

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江戸など大都市圏において銭湯は、庶民のくらしになくてはならないものでした。銭湯が作られたのは、木造の建物が密集して建ちならぶ下町で、できるかぎり火元を管理し、火事が発生することをふせぐためでもありましたからね。

江戸で銭湯が最初に現れたのは、一説に1591年のこと(『そぞろ物語』)。もともと日本で入浴といえば、蒸し風呂(サウナ)に入ることだったのですね。でも江戸ではサウナ(風呂)よりも、大量のお湯で身体を洗う……つまり「洗湯(せんとう)」という新習慣のほうが定着。それがビジネスとして成立してく中で、「銭湯」の表記が生まれたのでした。

庶民文化がもっとも隆盛した19世紀はじめの頃、銭湯の営業時間は朝8時から夜8時。
その当時の入浴料は現代の貨幣価値で1回150~200円ほど。月決めフリーパスや回数券なども発行されており、1日に何度も銭湯に行くという光景すら普通のことだったんですね。
しかし(すくなくとも下町の)銭湯は男女混浴です。

何回も、幕府から混浴禁止令が出されましたが、けっきょく元に戻ってしまうのです。この背景にあるのは、銭湯が各種・出会いの場所として期待されていたということでしょうね。

江戸の下町の銭湯は男湯だけが2階建てで、その2階部分は男性客のみが使える、休憩スペースになっていました。ここで友人同士で話をしたり、将棋や囲碁などのゲームをしたり、あとは女湯を覗く……なんてことがおおっぴらに許されていたんですねぇ(笑)。

湯けむりがものすごく、具体的には見えなかったわけですし、女性もホントの意味で裸で、素の自分を選んでもらえる場所として、銭湯で見られることを逆に利用していたといえます。

江戸時代中期までは、「湯文字」とよばれる、基本は白色の女性用ふんどしを着用して庶民の女性も入浴していました。しかし……たとえば新年最初の入浴は「初湯」とされ、黄色など派手な色の「勝負湯文字」を付けて銭湯にいく女たちの姿がありました(既婚女性もふくむ)。

ただし、男性にカラダを見られる以上の行為へのガードは堅く、結婚前の若い娘さんには必ず母親やその姉妹が付き添っていたりで、チカン行為はふせごうとしていました。

さて、女性が銭湯でもっとも気をつけるべきなのは、カラダを洗う時でした。知らない人がたくさんいる場合など、銭湯の床でカラダを洗ったりする時には、片膝を立てた「立て膝」の姿勢で女性は座りました。立て膝の姿勢だと、もしマナーの悪い男に絡まれた時でも、すぐに立ち上がって逃げたり、攻撃することだって簡単でしたからね。

なお現代人が他人の目から隠したがるバストですが、江戸時代では基本的に見えしまっても大丈夫な身体のパーツで、とくにエッチとされる部分ではなかったのです。

銭湯では、現代人なら他人には秘密にしたいケアも公然と行われていました。それはアンダーヘアのお手入れです。その名も毛切石という石が銭湯には置いてあり、それをハサミがわりにして毛を短くカットした状態にしておくことが、男女ともに重要なオシャレだとされていたのです。しかし……銭湯という場所で無駄毛ケアまでおおっぴらに許されてしまうという感覚、現代人には非常に大胆に感じられますよね~。

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