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これからの共同体社会はどのように創られていくのか-11

前回は、時代を貫通して性を中心とした母系集団の強さを「誓約」、「おかみさん」の事例から探った。歴史的に、男だけの闘争(生産)集団や、女だけの生殖集団だけでは社会は成立しないので、仮にそういう集団分化がなされても婚姻様式によるつながり(規範)によって統合が図られ、バランスをとるものである。

しかし、かつて権力の中枢に婚姻によって絶対的な勢力を持つ「家」が存在した。中世~近世ヨーロッパのハプスブルグ家、古代日本においては藤原家などである。ともに私権社会として、身分秩序が絶対化世襲化した中で、いかに権力を手に入れるかを「婚姻」という手段を核に実践してきた。権謀術に長け、性そのものを幻想化していった。

これらの事例は、これからの本源的な性、そして共同体集団の婚姻規範としては「反面教師」の事例として取り上げておきたい。しかし、その権力を手に入れるための手段ではあるが「性」にかける執念は並外れたものであった。

■政略結婚というシステムで私権の中枢に食い込む勢力

中世は私権(財産、地位)を獲得しなければ生きていけない時代であり、特に欧州においてはその覇権闘争が激しく、「政略結婚」というシステムを巧みに操って財産、地位を獲得した。その「家」としての目的は、もはや次代には通じない遺物でしかないが、婚姻という集団「家」にとって最も大切な機能を最先端の拡大戦略に用いた大胆さ、冷徹な計算は注目しておく必要がある。

 

この婚姻は、「家」の生き残り、拡大戦略の中に包摂されており、近代の恋愛という個人の自由気ままな婚姻とは別物であった。逆に言えば、近代市場社会を誘導した勢力は、この政略結婚の恐ろしさを把握していたがゆえに、恋愛至上主義を振りまいたのかもしれない。

 

世界を操る支配者たち(4)〜欧州貴族ハプスブルグ家 [1]

(前略)

ハプスブルグ家が再度皇位に返り咲いたのは1437年アルブレヒト2世のとき。

次いで1440年に選ばれたフリードリヒ3世は「帝国第一の就寝帽」(ナイトキャップは安眠を誘う道具という意味で、退屈で眠たいという意味?)と評されるほど無能な人物でしたが、忍耐をモットーとする彼は弟やハンガリー王の攻撃にも、時には姿をくらますなど、恥も外聞も捨てて実益をとり、そうこうしているうちにある者はフリードリヒ攻撃をあきらめ、あるいは死去して、いつしかフリードリヒ3世が勝利するという結果を残しました。そして歴代最長の53年の治世となりその長寿と婚姻政策の成功によって結果的にハプスブルグ家発展の道を開くことになったのです。

「 戦は他国にやらせておけ、汝は結婚せよ 」

フリードリッヒ3世の息子のマクシミリアン1世は当時ヨーロッパ文化の中心だったブルゴーニュ公国シャルル突進公の一人娘と粘り強い交渉の末結婚、そしてシャルルの死去と共に公国を相続しました。

(中略)

これに対してフランスのルイ11世は「仲が悪いとはいえ、ブルゴーニュ公国はうちの王国の血筋だ」と怒り出します。

ブルゴーニュ公国は3代目フィリップ善良公が100年戦争後期にイギリスと手を組み、ヴァロワ朝本家のフランスと覇権をかけて闘ったぐらいです。シャルル突進公は4代目にあたります。

このブルゴーニュ公国は強大で、本家フランス王国としても何とかしたい、という状況だったのに、ハプスブルグ家に取り込まれようとしているのです。ここにフランスVSハプスブルグ家の因縁の戦争が始まります。

ちなみにマクシミリアン1世は優秀な人物でフランス軍との戦争に圧勝しています。この時ブルゴーニュ公国の経済観念、統治機構などを学習し、神聖ローマ帝国の近代化が図られました。

(後に、オーストリア・ハプスブルグ家はフランスとも同盟関係を結ぶために、マリー・アントワネットを、フランス・ブルボン王朝ルイ16世と政略結婚させることになります。)

そしてその息子であるフィリップ美公は、スペイン王国国王イザベル1世の娘であるファナと結婚するのです。当時、スペインはイスラム王朝を滅ぼしイベリア半島をイスラムからカトリックが奪還することに成功していました。

そしてその二人の間にできた息子カール5世(=スペイン国王カルロス1世)が1516年にスペイン国王に即位します。

丁度この頃大航海時代に突入しました。

(中略)

こうしてハプスブルグ家は、スペイン国王を継承する「スペイン系ハプスブルグ家」と神聖ローマ帝国を継承する「オーストリア系ハプスブルグ家」に分かれることになったのです。しかし血筋を継承していくために、両家間で近親結婚を繰り返して行きます。

どうやらハプスブルグ家の資産の源泉は、血のネットワークとも言うべき、血縁関係によって富を確保する政略結婚システムなのです。

元々、婚姻形態は社会の基底部に位置するもので、ハプスブルグ家は、その基底部分にウィルスのように侵入し、私婚制度が維持され続ける限り、私婚制度に基づく私権獲得し続けられるように、しっかり寄生し続けていると言えるでしょう。特に財産継承権、その中でも王位継承権をしっかりと握っていたのです。

また婚姻による所領の流出を避けるため、叔父と姪やいとこ同士という血族結婚を数多く重ね、一族外に所領が継承されるのを防ごうとするのもその一環です。

結果、17世紀頃には誕生した子供の多くが障害を持っていたり、幼くして死亡するという事態が起こっています。それでもイングランド王家のように外戚に家を乗っ取られることも、また一族内で争いが起こることも稀だったということは、「婚姻制度の重要性」を一族としてしっかり共認していた、と想定されます。

 

そして、古代日本における藤原家もすさまじい歴史を刻んできた。

 

書き換えられた歴史・今も日本を支配する藤原氏の正体は? [2]

(前略)

【天皇家そのものとなっていく藤原家】

律令制度というのは、土地の私有を認めず、すべて天皇のものとし、豪族は冠位や役職によって俸禄を得て、市民は土地を貸し与えられる代わりに租庸調と言われる納税の義務がありました。  しかし、この制度は冠位や役職を藤原氏が独占したことや、開墾した土地を荘園として私有地にしてしまうなど、藤原氏に富が集中する仕組みとなっていきました。  藤原不比等は720年に死んだのですが、すでに天皇の外戚の地位を獲得していました。さらに、天武天皇の孫の長屋王を謀略で自害させるなど、藤原家の血のつながっていない皇子を徹底的に排除して、ますます外戚としての地位を強固なものにして行きました。 そして不比等の4人の息子に、それぞれ別々の藤原家を名乗らせ、役職を独占しようとしました。(各家に役職につけるのは1名ずつと決められていたため、別の家にしたのです)

その4人の息子は、天然痘で全員いっぺんに死んでしまうのですが(長屋王のたたりとも言われます)、次男の房前(ふささき)の藤原北家が残り、その後の摂政・関白の地位を近世まで独占します。

藤原家(正確には藤原北家)は、平安中期の藤原道長・頼道のころに最盛期を迎えます。道長は3代の天皇の外戚となります。  歴史の教科書では、藤原家の栄華はこの辺を頂点として衰えていくと書かれています。  ところが、その後も藤原氏(藤原北家)は、五摂家として名前を変え、天皇家だけでなく、時の有力者とたくみに閨閥を形成して生き残っていくのです。  五摂家とは近衛・鷹司・九条・二条・一条家のことです。  五摂家は、摂政・関白として天皇家を輔弼(ほひつ)する地位を独占してきただけでなく、天皇の妃(皇后)も独占してきました。つまり藤原氏(五摂家)は、天皇家そのものになったのです。だから現在の歴史家も藤原氏の正体に切り込めないのです。  五摂家以外から初めて皇后に迎えられたのが、何と今上天皇の美智子皇后なのです。

【名前を変えて現代まで脈々と続く藤原家】

女帝は結婚できないので子供が出来ません。ここで天皇家のなかの徳川の血を絶やしてしまおうという五摂家の深慮遠謀だったようです。  鎌倉時代、将軍家である源家の血筋が3代で途絶えてしまった時、将軍に送り込まれたのが藤原北家の九条氏からでした。  室町時代に入ると、足利将軍家の正室を送り続けた日野家も、藤原北家の流れを引きます。  江戸時代の徳川将軍家の正室も五摂家から多く出ています。ただ徳川家の方も正室に将軍の世継(男児)が出来ないように画策していたようです。

そして明治維新で、再び天皇親政が始まると、当然五摂家の力は復活します。

第二次世界大戦直前の首相であった近衛文麿は、もちろん五摂家筆頭の近衛家当主であり、天皇を輔弼(ほひつ)し、首相候補を天皇に奏上する役目であった(つまり首相を実質的に決める権限があった)元老の西園寺公望も、藤原北家の流れを引く西園寺家でした。  つまり8世紀はじめに藤原不比等が引いた路線が、その後、形を変えて時の政権の近くで存続し、1200年以上もたった明治時代に再び表舞台に出てきたのです。

(後略)

 

■婚姻制も社会の圧力によって規定される

婚姻制も社会にかかる圧力によって規定されているということが見て取れる。個人の感情発ではなく、共同体としての在り様を共有した婚姻制を創らなければ持続できない。

 

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