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支配から自主管理へ-2

前回、まさに今支配から自主管理へ転換する可能性があり、人類史的には共同体としての自主管理によって過酷な課題を強固な意思疎通で生き延びてきたことを述べた。

引き続き、支配という枠を脱して本来の自主管理体制に移行していくには、自主管理というものの本質をつかんでおきたい。

そこでは、あくまで集団が勝っていくことが大前提となる。そのために現実を徹底して直視することが求められ、その集団にとって可能性を志向するのみといえる。現代において現実とは、社会的な関係のなかにあり、その圧力構造に適合することにある。

具体的には生産も生殖も一体化して自主自律することであるが、閉じた存在ではなく社会との関係形成を働きかけることが重要となる。

脱支配とは、強制がないとはいえ、決して思い通りになるような甘いものではないが、自主管理の神髄は自他が一体として捉えられるかにあるのではないだろうか?

その可能性に向い、課題を実現していくことこそ最大の活力となる。

自主管理としてよくでてくる江戸時代の事例を紹介したい。

 

共同所有と自主管理が、日本人の共同性の高さを保ってきた [1]

日々是勉強」リンク [2] より引用抜粋
*************〈引用開始〉**************

>村落共同体等(入会集団)が、一定の主として山林原野において土地を総有し、
>伐木・採草・キノコ狩りのなどの共同利用を行う

つまり、カネがなくても、共同体のメンバーであれば生活物資を手に入れられるということです。このことの重要さは、寮生活をしている(させられている)製造業の派遣労働者を見れば、一目瞭然です(たとえば、●こういう例)。雇用関係が切られた瞬間に、彼らは全てを失います。

また、入会地の利点は、共同体の中で乱開発に対する抑制が自然に働くことです。それを失ったら生きていけないと思えば、自然と気を遣うはずです。

また、他のメンバーの目を気にすれば、自分だけ取りすぎることもできません。破ったら、みんなから無視されることになります(いわゆる村八分)。

他からカネを出して買ってくる化石燃料に、こういうブレーキが働くでしょうか。我々が化石燃料に対して働かせられるのは「お金がもったいない」という抑制だけです。

よそから買ってくる材木も同じ事です。逆に言えば、カネさえあればいくらでも資源を使っていいということです。これでは、豊かな国が資源の浪費に走るのは当然です。

こういうことを言うと、よく「地球環境に与える影響を考えるべきだ」などという人がいます。そういうことを、学校できちんと教育すれば、きっと資源の乱用や森林の乱開発はなくせるはずだという考えのようです。

断言しても構いませんが、そんなことをいくらやっても無駄です。たとえば、小学校ではもう10年くらい前から牛乳パックのリサイクルのような「環境教育」をやってきていますが、いっこうに効果は上がっていません。

よくゴミの量が減ったといっていますが、分別して処分場に溜まる分が減っているだけで、リサイクル工場には「原材料」が在庫となって山と積まれているということがよくあります。

理由は明白です。自分の手に届くところに資源がないからです。目に見えない、触れられないものを信じろと言うのは、一種の宗教です。

「環境問題」に異論を挟むと激高する人がたまにいるのですが、あれなどカルト宗教の信者と同じだと思います。そして、そんな「信仰」は、現実に地球環境を救うのに何の役にも立ちません。

本当に環境を守りたいなら、資源をなるべく身近な場所から調達し、利用法や用量を含めて管理するしかありません。これは、土地が誰か一人の所有物だと無理です。近くに住んでいる人みんなが関わっていく入会地が最適です。

>国有地として登録された土地における入会権については、政府は戦前より一貫してその存在を否定していた

我々は普段、政府というと「我々の安全や生活を守るもの」と理解しているはずです。しかし、それはあくまで近代国家の仕組みに従う限りは、という意味です。もし国家が全面的な庇護者であるなら、入会地の存在を認めたはずです。

近代国家の一番の眼目は、「土地の私的所有を認める」ことです。土地は売買する道具や、徴税のための単位(地租改正がその典型)にされたわけです。

私はこれを●以前の記事で、「権威から権利へ」というたとえで表現しました。村落共同体というのも、みんなを包み込む目に見えない存在ということで、在郷貴族と同様の権威と考えられます。そういうものは、近代国家による国土の支配から見たら邪魔なのです。

非常に乱暴な決めつけかもしれませんが、自然(地球資源の限界)と折り合って生きていく入会地という先人の知恵は、金持ちが土地を買い占めたり、税金を効率よく集めたりしたいと願う一部の人間たちによって踏みにじられ、現代に至っているということです。

その結果、我々、特に私のような都市住民などは、自然(物質循環)や共同体(人間の環)から切り離され、賃金というか細い糸にすがって生きる弱い存在になりはててしまいました。これが「近代」であり、「文明」のもたらしたものなのです。
*************〈引用以上〉**************

近代化以前の日本では、生活の糧となる薪や食料を得る入会地や、水田耕作をする上で欠かせない用水を村落共同体で所有して、自分たちの生きる場を自らが管理する”自主管理”が貫徹されていたといえる。

そこでは、庶民は「お上」に、自分たちの邪魔をしないことのみを期待していたともいえる。それが、現代において日本人が、統合階級に秩序の安定だけを期待していることにも繋がっている。

また、共同体(=自分たちが帰属している集団)の生存を依存する、山、川や海など自然対象への畏敬の念も同時に強く働き、過度な開発を抑制し、田畑と自然とが調和した里山など日本独自の環境をつくり上げてきた。

しかし、”すべてに私有権を持たせることが大前提”の、市場原理を推進する近代社会の仕組みによって、日本人の持つ共同性は奪われていき、特に戦後はひたすら消費するだけの存在になってしまった。

市場の行き詰まりと、統合階級の無能さが顕著になった現代において、日本人は、かつての村落共同体に代わる新たな共同体性の構築に、社会活力再生の可能性を見出していくのではないだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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