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閉鎖独占からの離脱~学校という専門特化した場は必要なのか~

前回は、企業に焦点を当ててその可能性を探った。本来、企業なるものは社会の公器であり、家庭や学校などの機能を包摂した存在であると提起し、江戸時代と現代の実践されている事例記事を紹介した。人材育成という視点で見た場合、学校という歪んだ場では成果が出ないことが示唆されている。

そもそも、人は現実の社会的圧力の中で育つものである。誰しもたどってきたことは、赤子のころに周りの人の中で自らが言葉という高度な機能を獲得してきたことであり、その後の遊びの中で様々な約束事や廻りへの思いやり、感情の共有、行動規範など生のままに育つ。そこには生命原理でいう闘争課題、生殖課題につながる様々な必要な事柄を真似る⇒学ぶという行為につながる。それら課題への畏敬や早くできるようになりたいという欠乏を強くしていくものである。

学校という現実から切り離された場ではその圧力が働かない点で、まず適していない。さらに同年齢、同カリキュラムというプログラムも現実の状況を無視したきわめて人工的なシステムであり、教師がそのシステムの絶対支配者に陥る閉鎖独占性が問題である。まさに核家族の問題と重なっている。そして、現代の学校では、上記のような根底からの欠乏が失せてしまうことが最大の問題点であろう。何に向って学んでいるのか全く見えない。個々人の学歴、就職のための、あるいはその実績にこだわった運営に堕しているのではないのだろうか?文科省というトップから教育という分野を独占して指導している制度もまさに市場社会における奴隷の再生産といわれても否定できない。

脱学校という視点で今回も記事を紹介したい。

脱学校の場で行われているのは人として当たり前の事なのでは [1]

昨年の今頃、3年生になった息子が「学校に行きたくない」と言い出した。一応理由を聞いてみると「面白くない」と…。

その時探したオルタナティブスクールの一つが、箕面こどもの森学園。その時は定員一杯で、かつ、キャンセル待ちがたくさんいる状況であきらめざるを得ない状況でしたが、今月に入って急遽「空が出ました」との連絡が。

というわけで、先日、箕面こどもの森学園リンク [2]を見学してきました。小学校1~3年生が1クラス、4~6年生が1クラス、中学1~3年生が1クラス。クラスはそれぞれ20名前後で、いわゆる異学年合同クラス。

良いなぁと思った事はたくさんありますが、自分が通った、あるいは、息子が通っている公立の小学校との一番の違いは、子ども同士の会話だと思いました。

誰かの意見に対して、別の子が発言し、さらに他の子が続ける。話は拡散しない。一人一人が会話の繋がり、みんなの意識の繋がりを楽しんでいるように思う。

そこで思った事。

「これが、当たり前なのではないか」

翻って、公立の小学校の授業参観を思い出してみる。先生が質問する、生徒が一斉に手を上げる、先生があてる、あてられた生徒が回答する、あてられない生徒は話を聞いていない、もしくは、発言者にちゃちゃを入れる、勝手にしゃべりだすと収拾はつかない。

ポイントは、先生と生徒の一直線のみになっている事。先生に向かって発言する、先生からの評価を求める、そんな感じなのでは。

生徒同士で話をする事。なんらかの課題について、一緒に追求する事。新しい事をみんなで発見する事。相手の気持ちがわかる事。これらが一番楽しい事。

 

■「脱学校」の潮流が始まった! [3]

「教えない学校」、「教えない授業」、「教えない塾」などでネット検索すると、出てくる出てくる。
塾においては今や「教えない○○」がアピールポイントにすらなっているように感じる。
一方で、「学校では教えてくれない○○」という記事も大量にヒットするが、違和感を感じる。
学校では「教えること」が当たり前、「教えない学校はダメ」、という前提に立っているからだ。
単に教えるだけなら人工知能で充分だという記事(リンク [4])があったが、たしかに教師不要の時代もきそうである。

そして、教えない学校から、学校に行かない選択をする「脱学校」の潮流も見られるようだ。
いよいよ義務教育のあり方自体が問われる時代、教育革命が現実に必要な時代になった。

 

◆教えない授業
北海道札幌旭丘高等学校 [5]
「教えない授業」を目指して~「自ら考える力」をつけるための工夫

さいたま市 開智学園 [6]
「教えない」が難関大合格者を続出させる秘訣

東京都立 両国高校 [7]
「教えない授業」の魔力

幼稚園の子供に「あえて教えない教育」のご提案 [8]

 

◆教えない学習塾
教えないAtlas Kid’sの英会話スクール [9]

【東京都目黒区の学習塾】東山ゼミナール。 [10]
第3の教育とは「教えない教育」です。

【大分市の学習塾】学習空間Lit  [11]
とにかく自分で思考することが学力を伸ばすただ一つの方法
日常的な思考停止状態からいち早く脱却すべし

【愛知県の学習塾】歩夢学舎 [12]
歩夢学舎で一番大切なことは「教えすぎない」もっと言うと「教えない」こと。ただそれだけです。 [12]

【全国展開の学習塾】松陰塾 [13]
『教えないほうが学力が伸びる』
第一歩は、「勉強しなさい」というのをやめること。

【教師養成講座】e-講座 [14]
僕たちの教えない塾が色んな有識者の方々に認められましたっていう話
信じる。見守る。教えない授業。

【金沢市の学習塾】STUDYBANK [15]
教えない家庭教師としての1年を振り返ってみた

【京都府の学習塾】福幸塾 [16]
勉強を教えない塾
実生活や人生に関する『実際的な知恵』を学ぶ

【東京都品川区の学習塾】いぶき学院 [17]
教えない授業 [◆教育の役割 「教育は日本を変える」

【東京都の学習塾】宮本算数教室 [18]
名門中学8割合格の塾講師 型破りな「会話ゼロ」授業の様子

【徳島市の学習塾】未来舎 [19]
教えない塾~子供の学習意欲を高めるためには [20]

「教育者の仕事は、教えないこと」 [21]

 

◆教えない色々
「元プロ野球選手の〝教えない流儀〟」早鞆高校監督 [22]

「なにも教えないことで子どもは育つ」順天堂大学蹴球部の教育 [23]

【東京都世田谷区・数学塾】Qubenaアカデミー [4]
先生が何も教えない学習塾 人工知能で教材が成長

 

◆脱学校
学校に行かない選択 [24]

「学校には行かない」小2長男の“積極的不登校”という選択 [25]

9歳で学校に行かないという選択、自ら学ぶ姿勢・中島 芭旺の全て [26]

 

「脱学校の社会」~制度による支配から脱却し、自分たちの手で社会をつくろう!  [27]

1970年代、今から50年前にオーストリア出身の哲学者イヴァン・イリッチが「脱学校の社会」を著し、その後のフリースクールやオルタナティブ教育の進展に大きな影響を与えました。

1970年代といえば日本でも学校が荒れ始めたころで、学校、教師といったこれまでの権威が大きく揺らぎ始めた時代です。物的豊かさが実現し、貧困からの脱出を夢見て私権獲得にまい進し、制度で固められた序列や権威に甘んじていた人々の意識が脱私権へと向かい始めた時代でした。

今でこそ、学校教育の弊害が大きく議論されていますが、振り返ってみるとすでに50年前、学校制度を支える社会の根底が大きく変わっていたことに気付かされます。

(略)

以下(http://d.hatena.ne.jp/ken-longman/2013052)より引用します。
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学校(特に義務教育のそれ)は、あたりまえのように世の中で機能している。だが、はたして、本当に学校は社会に必要な機能なのだろうか?と問われると確たる答えを出す自信はない。イリッチは、今の形の学校は不要であると説き、さらに進んで、学校があるから、子どもたちは自由に学ぶ権利を奪われていると主張している。そして、教えるという視点でも、免状を持たない人間に「教える」という行為を禁ずることを法的に認める役割をもはたしている。

イリッチの描く「脱学校」の社会は、だれでも、いつからでも学習しようと思った時に学べる社会である。一方、自分の知っていることを他の人と分かち合いたいと思う人からその権利を奪わない。そう思う人と、学びたいと思う人をマッチングさせるネットワークを作ることを構想する。そして教室という枠を取り払い、だれでも「この指とまれ」で問題提起をして議論しあう場を保証する。この社会では、今の義務教育のような、パッケージ化された「知識」を注入するような教育とは無縁だ。識字教育を「人間解放」と位置付けたフレイレの主張と重なる部分もある。

このような提起が1970年代になされていたことに特にすばらしさを感じる。イリッチは本書の中で「学習のための網状組織」learning webs という概念を提案している。今でこそ、インターネットが普及してwebというのは珍しくないが、本書が書かれたのは、インターネット以前の社会だ。

そして、現実に、学校という形にとらわれない「学び」がネット上に普及してきている。日本にいながら、年齢に関係なく、アメリカの大学の名講座を受講でき、レポートを出したり、議論に参加したりできる。また、「知恵袋」のような形で、だれでも質問し、別の場面では、自分の持っている知識を広めることもできる。動画サイトを使えば、自分の「講義」を発信することもできる。

ただし、イリッチの指摘の本質は、学校に象徴される現代の社会制度そのものだ。いくらインターネットが発達しても、各種「制度」が人間を支配する構造が変われない限り、「脱学校の社会」は見えてこない。
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イリッチは脱学校を唱えるだけでなく、その後の学校・社会のあり方も示唆していました。驚くのは「学習のための網状組織」learning webs という概念。

まだインターネットなど存在していなかった当時は、制度の支配から脱して人と人が主体的に繋がり合うイメージだったのだと思います。それがネットの普及と同時に一気に実現に向かっているのが現在の状況です。

そしてイリッチは「価値の制度化」という視点で、医療や福祉制度にも切り込んでいます。

以下(https://ittokutomano.blogspot.jp/2011/11/blog-post.html)より引用します。
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イリッチの社会批判のキーワードは、「価値の制度化」だ。

先にも書いたように、価値とは個々人の多様な豊かな生のために、個々人が自ら実感し育てていくものであるはずだ。

しかし教育も医療も福祉も、みな「あるべき姿」が公的価値によって決定されている。

たとえば、学校的知識を持っていれば持っているほど、彼は「有能」な人とされる。

医療で言えば、お腹周りが何センチ以上の人はメタボと診断され、「不健康」な人と決定される。

学校的知識がそれほどなくたって、世故に長けた人はいっぱいいるじゃないか。太っていたって、それで豊かな人生を送っている人はたくさんいるじゃないか。

イリッチの批判は、さしあたりそうしたものだと考えていい。「価値の制度化」は、個々人の多様で豊かな生を妨げてしまうのだ。

「学校と病院のどちらも、自分自身で自分の治療を行なうのは無責任なことだとか、独学で学習するのは信用できないことだとみなすのであり、また行政当局から費用の出ていない住民組織は一種の攻撃的ないし破壊的活動にほかならないとみなすのである。」
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