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閉鎖独占からの離脱~お役所という独占管理システムから自主自立

現代の自由市場社会にあって、国家としての管理システムである行政機関がある。自由を標榜する社会では不整合がいたるところで起こりうるが、国民や企業などからの税の搾取、治安維持、保健衛生、教育、資源エネルギー、防災等多岐にわたり管理圧力が働く。これを国家を頂点とするお役所が独占して実践している。

この圧力はさまざまな法制を伴い年々強まっている。昨今のコロナ騒動然り。しかし、その圧力は歪んだものであり違和感を感じる人も多いのでないだろうか? その背景には、親方日の丸意識の上に、近代思想の中核である平等や権利意識を原則とした閉鎖独占の融通の利かないシステムがある。だれもが納得できる現実に即した施策は決して上から押し付けられたものではないはず。人類として、社会構造として自主性を回復するには母体となる共同体が不可欠となる。

現代は国家に依存せざるをえない社会的な役割をはく奪されてしまった個々の群でしかなく、それを権利意識でごまかしているにすぎないのかもしれない。そして、ますますお役所の管理圧力が強くなっていき、誰しもが疲弊していく自滅構造に陥っている。

だからこそ、社会的な役割を持った共同体の再生が、その殻を破る可能性を持つ。そのような可能性のあるき時を今回も紹介したい。

コロナ後はコロナ前に戻ることはない⇒政治に期待できない⇒共同体気質の色濃い企業間の協創が日本を救う [1]

(略)

・米国の大統領選は、世界情勢激動の引き金となった。トランプ革命に翻弄されるバイデン政権は、さらに身内の複雑な支持母体から突き上げを食らっている。黒人やヒスパニックや女性団体、それに同性愛者や性的少数者の主張も絡み合って、人種問題と主義主張のバケツをひっくり返した政権内抗争に嵌っている。不穏な抗争の激化は予断を許さない。

・中国やロシア政権の権力抗争もあからさまになって、イタリアをはじめ、欧州諸国も政権の土台が揺らぎだした。ミャンマーの軍事政権(民族主義勢力)復活など、強国の周辺諸国も動き出し、朝鮮半島や台湾海峡の動静など、日本周辺の海峡/国境紛争も予断を許さぬ状況ではなかろうか。コロナ禍を機に、世界は同時に夢想だにし得なかった地殻変動/激動期入りとなった。

・しかし、日本人はマスコミが焚きつけるコロナ騒動に洗脳され、東京五輪ボケで惰眠を貪る。自民党はたかが老人の狡猾な人事権支配に翻弄され、野党の党首となれば、福島原発爆発事故時の狼狽ぶりが脳裏に浮かび、目にしただけで萎えてしまう。政界の人材は底をついたと観念する。菅政権の足元もすでにガタガタ、政権末期の状況の様だ。日銀だよりの財政と株式は、必ずや破綻し暴落する。企業倒産と失業者の増大は避けがたい事態へと、経済は崩れていく。
コロナ禍の前に、もう戻ることはない。このままの日本ならば、狡猾な米国のジャパンハンドラーや中国/ロシアの餌食にされ、バブル崩壊時を上まわる国富が収奪される。

・如何にしてこの逆境をのり越えていくか、人々を守り得るのは国家や政治ではない、共同体気質が色濃い日本企業の底力に、社員と家族を/国民を守る気迫を期待していきたい。企業には鍛え抜かれた人材が育成されている。一企業だけでは社員を守り得ない、異業種の企業間や農漁村と都市の地域間での協働が大切ではなかろうか。物々交換や人材の交流による生産力の流動化など、経営相互の交流は如何様にも可能だ。

 

「私たちの自立性を取り戻すには」~必要なのは共同体の再生 [2]

(略)

近代以降、人びとは「自由・平等・博愛」を手にした。それまで以上に個人の「自立性」は高まるものだと信じていた。ところが実際には、国家に直接翻弄され、かえって自立性は失われた。「自由・平等・博愛」とは、人びとから「自立性」を奪い、国家が直接大衆を支配するための詭弁に過ぎなかった。

とすれば、私たちに何が必要なのは明確。「国と個人の中間にある様々な共同体をつくり直すこと」、それによって「上級権力によって左右されない自立性」を取り戻すこと。

マガジン9「私たちの自立性を取り戻すには」リンク [3]より転載します。
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天下国家を語ることの違和感のようなものが私にはあります。「明日の日本はどうあるべきか」みたいなテレビの討論番組で、パネリストたちが口角泡を飛ばして議論する姿を見るのも苦手。己が国を背負ったかのような語り口に引いてしまうのです。

政治に関心がないわけではないのに、どうしてだろう? そんなことを考えているとき、書店で『近代の呪い』という本が目に入りました。

著者の渡辺京二氏には、近代以前の日本人の暮らしを外国人がどう見ていたかについて書いたロングセラー『逝きし世の面影』や、ペリーが日本に来航する以前の蝦夷地で、日本人とアイヌ人、そしてロシア人がどのように交流していたかを綴った大佛次郎賞受賞作『黒船前夜』(同書は以前、マガ9レビューで紹介しました)などの作品があります。

『近代の呪い』は、渡辺氏が地元熊本で行った講演を基に書かれたものです。同氏はそこで、近代国家の始まりとされているフランス革命は様々な共同体(コミュニティ)を破壊し、国と個人を直接向き合わせるようにした、それがはたして自由・平等・博愛の理念に資するものであったのか、と疑問を投げかけています。

近代以前の日本の民衆は「上の人たちがやっている事は自分たちとは関係ないとして、徹底的に無視」していたと渡辺氏は言います。士農工商の身分制度にがんじがらめにされていたという私たちのイメージとは違って、「民衆世界が上級権力によって左右されない自立性をもって」いたのだと。

ならば、どうして近代国家が民衆に受け入れられたのか。理由は、それまでの歴史に例を見ない急速な経済発展のおかげです。19世紀後半から現在にいたるまで、技術の急速な進歩により、私たちの生活はどんどん豊かになりました。とりわけ戦後の高度経済成長時代は、昨日より今日、今日よりも明日がよくなると思えた。だから、私たちは「上の人たちがやっている事」を無視、あるいは大目に見ることができたのでしょう。

しかし、それは近代以前の人々の自立性とは別物です。その証拠に、成長のスピードが鈍化し、貧富の差が拡大している時代にあって、少なからぬ人々はナショナリズムに収斂されているように見えます。「上の人たち」は「上の人たち」で、私たちの生活のなかに、いろいろと手を突っ込んでくる。そこにいまの時代の閉塞感の原因があるのではないでしょうか。

とすれば、私たちに必要なのは、国と個人の中間にある様々な共同体をつくり直すこと。それによって「上級権力によって左右されない自立性」を取り戻せるかもしれません。マガジン9のような集まりもそのひとつかも──。渡辺氏の本を読んで、そんなことも考えました。

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