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共同体社会の仕組みはどうなる? -4

前回は脱市場の観点で新しい生産関係が贈与という概念を通して広がっていき、活力が再生されていくことを述べた。今回は、生産の枠を超えた課題として、どうしても社会的な規範や取り決めなど、共同体のネットワークでも扱いきれない課題があり、そこを焦点にあてたい。

それは(いずれ不要となることを願うが)防衛や大規模災害、環境対策などの超集団的な課題である。現在は法律による規制や国家レベルでの大綱などをもとにそれを専門とするキャリアによって運営され政府機関にて統制されている。逆にその構造が利権を生んでいることも否めない。そして、環境問題に代表されるような課題は、全地球的な解決が必要であるが現状の国際機関としての国連もまた利権(国家間の利害)に左右されている。

いわゆる 脱市場の社会(資本主義社会の終焉後)では、そのような力学よりも、実質的な成果が最大の価値となる。もはやだましや小手先のごまかしは通用しない。経歴や資格も絶対ではない。そのような仕組みづくり、組織化が求められるが、これまで展開してきたように決して独占、閉鎖した構造ではなく、解決に至る過程や決定手法なども開かれた場で皆が納得できるものになっていくだろう。

例えば「リナックス」というオープンソースを皆で作り上げてきたように、だれもが参加できるが皆にとっての成果が求められるような仕組みにヒントがありそうだ。そして、専任化の弊害を解消するには江戸時代の参勤交代。そんな仕組みを今回も紹介したい。

リナックス開発の歴史から見えてくる新理論構築の将来像 [1]

>この認識が万人参加の協働の場で作られるイメージはリナックスの事例を当てはめると想像しやすい。しかしリナックスは協働作業とは言え、専門的知識を有する一部の人によって行われた。そして無償で行われた。

少し旧いデータであるが、2008年段階においてリナックスを支援している技術者数の割合は個人が25%、企業が75%である。

また、上位10人の開発者が修正箇所総数のうち約15%を、上位30人が約30%を占めており、まだまだ”属人ベース”で開発が進められていることも確かである。旧来のスタイルを残しつつ、企業に属す技術者の力を借り開発の精度と速度を上げていることが、現在におけるLinuxカーネルの開発風景である。

ここで、企業によるLinuxカーネル開発の支援は、開発者を雇用 / 金銭的に援助するという間接的な方法で行われている。
そして、企業業種別の支援する理由は次のようになっている。

「ディストリビュータ(Linuxの核となるカーネルに各種のプログラムを追加した「Linuxディストリビューション」を開発・ 配布している企業や団体)」:Linuxを強化することに明確な意思を持っており、対顧客においては競合するものの、Linuxカーネルの改良に関しては協力関係にある。(Red HatとNovell、MontaVistaなど)

「プロセッサ/ハードウェアベンダ」:企業の製品でLinuxがよりよく動作する (たとえばハードウェアサポート強化) ことにより、製品の付加価値が増し企業利益につながる。(IBMやIntel、SGI、MIPS、Freescale、HPなど)

「家電/AV機器メーカー」:カーネル開発への参加はLinuxを将来にわたり製品の重要な部品とすることへの保障となる。実際、家電や携帯電話における”Linuxという部品の共有化”は急ピッチで進められており、今後はそれらの企業に属す開発者の参加が増えていく。

以上が、リナックスという工業生産品の技術者ネットワークの姿である。

では、意識生産と共同体企業ネットワークの場合はどうなるのだろうか。

対象をより深く掴むためのOS=概念装置(260719 [2])を習得した人々による新理論の構築も、リナックスのように個人と企業(経営者や社員)からの支援によって追求開発と修正をし続けていく姿が想起される。

Linuxファンの中には(開発者の)リーナスを神のごとく崇め奉っているものも多いが、彼は自著”Just For Fun”(邦題『それがぼくには楽しかったから』)の中でそういう対応に困惑しており迷惑だと感じていると述べている。リンク [3]

従来のマイクロソフトのWindows OSやMac OSに代って、ゼロからOSを構築したリーナスは、みんなの役に立つ道具を開発することが活力源=充足源であったと思われる。「全く使えない従来のOS=旧観念」に代る「新理論(史的実現論)」も同じであろう。

このように比較してみると多くの類似点も見いだせる。

【参考】
・Linuxカーネル開発の舞台裏

 

環境問題の改革を進めるには、新しい社会統合機構が不可欠!8『官僚制の突破口は、「半専任・半事業⇒参勤交代制」』 [4]

 (略)

 

☆☆☆近代思想に導かれた、消費する自由は絶対という価値観

官僚機構の特権維持に向かう自閉構造の問題は、本シリーズでも大きく取り上げられてきました。しかし、大衆側の自由なエネルギー消費についてはあまり問題にされることはありません。たとえば、自動車を買うとき、その機種が多少の省エネ対策(これもまやかしに過ぎないのですが)をしているかどうかの関心はあっても、国家規模のエネルギー供給や環境問題にどう影響しているのか?は考えていないのが普通です。

だから、その製品を購入すること自体がどれほどエネルギー消費を増やし、エネルギー供給に対する負荷を高めるのか?あるいは環境負荷を高めるのか?という問題にはなかなか行き着きません。しかし、これらの負荷は非常に大きなもので、数パーセントの省エネ技術以前に、例えば車の生産量を減らした結果得られる燃料使用量の減少や、その生産に必要なエネルギー使用量の減少のほうがはるかに大きいのです。

これらは、消費する自由は絶対という近代思想に導かれた価値観を無意識に受け入れているために起こる現象です。そして、大量生産・大量消費を絶対善とする近代市場はこの思想によって拡大してきました。この価値観の基では、その結果引き起こされたエネルギー供給の逼迫という社会的問題に対して、消費者は『どうする?』という発想すら沸いてきません。

☆☆☆エネルギーの安定供給は、国家⇒新しい社会統合機構の役割

また、安定したエネルギー供給は、もともと市場原理には乗りにくいのですが、人々が生きていくためには必須なものです。だから、そのような需要は、(旧い)社会統合機構たる国家が担うしかありませんでした。その結果、大衆側からの要求(期待)である、消費量に見合ったエネルギーの安定供給の実現という政策は、国家を実質的に動かす官僚に大きな存在意義を与えることになりました。

☆大衆側の、社会的問題に対する無関心も、官僚の暴走を促した

同時に、大衆側の、大量消費の結果引き起こされたエネルギー供給の逼迫という社会的問題に対しての無関心は、官僚機構への監視圧力足りえず、彼らの暴走を許容してしまったという側面も見えてきます。

つまり、

官僚制と試験制の構造的欠陥 [5]

企業集団のような民間集団であれば、競合集団が存在しているため、社会が必要としていないのに、自らの集団の膨張のみを目的とするような馬鹿げた集団は淘汰されるしかない。  しかし集団を超えた国家の次元に位置する「官僚機構」には企業間競争のような同類闘争の競争圧力は働きにくい。そうした集団間競争という圧力を超えたところに位置するという特権性は、官僚機構が自閉化し、腐敗する構造的原因をなしているのだ。つまり超集団=社会を統合する組織が単一の集団である、という点が、「官僚機構」の最大の問題なのである。
のように、エネルギーの安定供給という役割は、単一集団を超えた位相にあるため、企業間競争(≒市場原理)のような同類闘争圧力はほとんど働きません。それゆえに、本当に社会で求められるものを供給していくという圧力は、何か他に必要になる、ということになります。

☆近代思想に立脚している限り、官僚も大衆もエネルギー・資源や環境問題を解決する当事者にはなれない

しかし、近代思想に立脚したままでは、大量生産・大量消費を絶対善としてしまうので、エネルギー・資源や環境問題を解決する当事者にはなり得ないということになります。これは、自分たちの権益を拡大するばかりの官僚も、消費の自由だけを要求しエネルギー供給に対する責任を官僚に押し付けるだけの大衆も、その双方とも問題を孕んでいるため、エネルギー・資源や環境問題を解決する当事者足りえないのです。

☆☆☆エネルギーの消費者がエネルギー供給政策の当事者になる

この改革を進めるには、旧い社会統合機構の実態である官僚機構の解体と、それに変わり、自らのエネルギー消費と供給の双方に責任をもつ人々で構成された新しい社会統合機構を作ることが必要になるのではないかと思います。この組織は消費にも責任を持たせることで、環境問題解決のためにどのようなエネルギー消費を考えていくかという課題も担うことになります。

☆エネルギーの消費と供給の一体的計画の中で初めて環境問題は解決する

現在、環境問題は環境省、エネルギー問題は経済産業省(資源エネルギー庁)という2つの組織によって担われています。ここでは、2集団の対立構造の作り出す圧力しか、環境問題の抑止力はありません。かつ、経済産業省のエネルギー供給政策の方は、常に環境破壊のベクトルしか持ちえません。しかし、エネルギーの消費と供給の一体的計画の中で初めて環境問題は解決するというのが事実です。つまり、エネルギーの消費者がエネルギー供給政策の当事者になり、消費にも供給にも責任を持つことが必要なのです。

☆☆☆半専任の人々で組織されたネットワーク集合がエネルギー供給を行う

それでは、エネルギーの消費者がエネルギー供給政策の当事者になる新しい社会統合機構とは、どのような形態が好ましいのでしょうか?

実現論 ト.万人が半専任(副業)として参画する [6]

集団を超えた次元に存在する社会を統合(もちろん変革も)する為には、単独の集団原理とは全く異なる原理の統合組織が必要なんだという事に、未だ誰も気付いていない。しかし、万人が参画できる、社会統合組織の条件は簡単で、二つだけである。社会統合は、全員が担うべき当然の役割=仕事だとすれば、その仕事に対してそれなりの収入が保障されなければならない。しかも誰もが何らかの専業に就いているとしたら、この組織は誰もが副業として担うことができる半事業組織でなければならない。

誰もが何らかの専業に就いているとは、誰もが生産集団に所属していて、そこから宙に浮いた官僚に代表される階層は存在しないということです。そこでは、生産や集団維持のためのエネルギー消費(集団の成員の、生活のための消費も含む)を行っています。これらのエネルギー消費者は、今まで単にエネルギーの安定供給に対して国家に要求するだけでした。その結果、それを官僚に逆手に取られ、

国益よりは省益、省益よりは私益(特別会計による省益の拡大)

無駄事業の量産(公共事業と天下り構造・官僚個人の私益の追求)

特定の専門家集団の暴走(官僚機構の際限のない肥大化)
という惨憺たる結果を招いてきました。そこを、逆転するためには、エネルギーの消費者がエネルギー供給政策の当事者になればいいのです。そうすれば、消費者も要求するだけではなく、『自らどのようにエネルギー供給を担っていくのか?』や『社会全体のエネルギー供給はどうあるべきか?』という視点をもって、社会統合のレベルで政策を考える必要に迫られます。そのことは、とりもなおさず自集団のエネルギー消費は社会全体の中でどうあるべきかという視点を持った消費者の誕生にもなります。

これを実現するためのシステムが、副業として担うことができる半事業組織です。そこでは、エネルギー供給政策を担う新しい社会統合機構を設立し、期間限定で専業の生産集団から政策担当者を出向させ、自集団も含めたあらゆる集団へのエネルギー供給政策を担わせることになります。そして、その給料は、仮に所属集団かその一つ上位の階層のグループが負担するということにします。

そうすると、期間限定であること、専業の生産集団(出向中はその給与も負担している)は別に存在することから、国益よりは省益、省益よりは私益に代表される、自閉性は無くなります。そうなると、そこで得られるものは、いかに社会のためになる政策を打ち出し実行してきたかという評価のみになります。当然、その評価を獲得するように、自集団からの期待もかかります。それも、在任期間に成果を出す必要から、公務員のようなサボリの発生しないでしょう。

これは、まだまだ荒削りのイメージですが、基本骨格はこれでいけるのではないかと思っています。これを例えるならば、現代の参勤交代制ということになるかもしれません。

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