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東洋と西洋~日本:農村の自治 『惣村』~

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今日は、日本の農村の「自治」について調べてみました。
1/8の記事「東洋と西洋、日本の一揆って・・・?」 [1]では、日本の農民が団結してお上と協議する場を持っていた、という話しがありました。
私達は、農村と聞くと虐げられ搾取に苦しむ農民を思い浮かべますが、絶対的な支配の下に泣き寝入りしていたわけではない、ということが事実としてわかりましたね。
で、今日は一揆のもとにもなった「惣村」の話です。


惣村とは・・・・・・

■中世初期の荘園や公領では、耕地の間に家がまばらに点在する散居(さんきょ)とよばれる形態が一般的でした。つまり、現在のような家が密集して存在している集落は、この時代においてはまだなかったわけですね。
■しかし鎌倉時代の後期になると、近畿地方を中心とする地域で、家が耕地から分かれて集まり、しだいに集落とよべるものが形づくられるようになっていきました。
■そしてこのような集落を基礎として、そこに住む人々は地縁的(ちえんてき)な結びつきを強め、荘園や公領の中にいくつかの村が自然にできあがっていきました。
■あたらしく形成された村は、「南北朝の争い」が行われていた時代を通じて、しだいに各地方へ広がっていったのですが、支配者が上からの強制(きょうせい)によってつくったのではない、このような村を惣(そう)あるいは惣村(そうそん)といい、自分たちのことは自分たちの手で、自分たちの責任において行うという自治的(じちてき)な性格がその特色でありました。

(「歴史の扉」 [2] 「第78章:惣村の形成と産業の発達」 [3] より引用)
ここで「自治」という言葉が登場しますが、どんな事をしていたのでしょう?

惣村の内部は、平等意識と連帯意識により結合していた。惣村の結合は、村の神社での各種行事(年中行事や無尽講・頼母子講など)を取り仕切る宮座を中核としていた。惣村で問題や決定すべき事項が生じたときは、惣村の構成員が出席する寄合(よりあい)という会議を開いて、独自の決定を行っていった。
惣村の結合を維持するため、寄合などで惣掟(そうおきて)という独自の規約を定め、惣掟に違反した場合は惣村自らが追放刑・財産没収・身体刑・死刑などを執行する自検断(じけんだん)が行われることもあった。追放刑や財産没収は、一定年限が経過した後に解除されることもあったが、窃盗や傷害に対する検断は非常に厳しく、死刑となることも少なくなかった。なお、中世の法慣習では、支配権を有する領主や地頭などが検断権を持つこととされていたが、支配される側の惣村が検断権を持っていた点に大きな特徴がある。
荘園領主や地頭などへの年貢は、元々、領主・地頭側が徴収することとされていたが、惣村が成立した後は、惣村が一括して年貢納入を請け負う地下請(じげうけ)が広く行われるようになった。地下請の実施は、領主側が惣村を信頼していることを意味するだけでなく、年貢納入が履行されなければ惣村の責任が強く問われることも意味していた。地下請の伝統は、惣村が消滅し、近世村落が成立した江戸時代以降も承継されていった。
惣村は、生産に必要な森・林・山を惣有財産とし、惣村民が利用できる入会地に設定した。惣村の精神的な中心である神社(鎮守)を維持するために神田を設定し、共同耕作することも広く見られた。また、農業用水の配分調整や水路・道路の普請(修築)、大川での渡し船の運営など、日常生活に必要な事柄も主体的に取り組んでいった。

(ウィキペディア「惣村」 [4]より引用)
ポイントは、
・合議制の会議:「寄合」で自らの規範=惣掟をつくる。
・掟に反した構成員を自らで処罰する。
・個別の税の徴収を自らで行う(その後一括して領主へ納める)。
・共有財産を設定し、惣村全体で管理を行う。

というところですね。
基本的に現在の私達の住む“地方自治体”と同じような事をしていたわけです。
ここまでやれば「自治」と呼んで差し支えありませんね。
じゃぁ、少し詳しく、
惣村の意思決定の場「寄合」はどんなふうにして行われていたのでしょうか。

中世の惣村において、その意志決定は、鎮守や寺庵で行われる集会(しゅうえ)・寄合においてなされていた。集会は村落住民の権利であり、義務だった。ここでは、合意形成のプロセスについて述べられ、互いに意見を出し合い、先例を根拠にして議論を行った上で多数決による決着がはかられる。そして、決定事項についての確認として、「起請文」を書いて署判した。その後、それを焼いて神水にまぜ、一同でまわし飲んだのだった。~中略~また、集会には定期的なものと非常時のものがあった。~中略~ 平時の集会では、早急に結論を出さねばならない問題があるわけではないため、時間をかけて互いに認識を深め、参加者全員の合意を得ようとしていたが、緊急時の集会では「多分の儀」(つまり、多数決)で決着をつけていた。(酒井紀美、2003年、87ページ~98ページ)

(「森川小屋:中世の一揆」 [5] より引用)
ここで注目すべきは、「平時の集会では、早急に結論を出さねばならない問題があるわけではないため、時間をかけて互いに認識を深め、参加者全員の合意を得ようとしていた」という点じゃないでしょうか。
なぜなら、このような議論が現在の“地方自治体”で行われているのか、甚だ疑問だからです。
自分達の生きる場を自分達の手でつくっていくとすれば、このような時間をかけて認識を深める議論が不可欠と考えます。
現在の私達から見れば“立派”な、しかし、至極当然の「合議制」が惣村では行われていたということですね。
(個人的には、決定事項を記した書面を残さない、というあたりも惣村という共同体の適応の巾を広げていたように思います)
・・・・・・
その後、戦国時代を経て太閤検地が行われたことで惣村は解体されていきます。
しかし、惣村で培われた「自治」の精神とシステムは近世に至っても継承され、大きな役割を果したといわれています。
惣村の自治を調べてみて、それを許してきた(私権強者であるはずの)領主達を含めて、日本人らしい共同関係が垣間見れました。みなさんはいかがだったでしょうか?

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