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婚姻のならし運転!?「ケイコニヤル・カセイニヤル婚姻【長崎県対馬市】」

長崎県対馬市では、嫁入り前の「ならし運転」とも言える様な婚姻様式があったようです。(昭和25年ころのフィールドワークでの報告)
ケイコニヤル婚姻
カセイニヤル婚姻です。
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対馬
近代(明治時代)以降、日本でも「結婚」というのが法制化されていきました。
もともと一般庶民は母系制ベースの婚姻形態であり、強制的に父系制に換えていくという事は、なかなか受け入れられるものではなかった・・・。
また、農村や地方ではそれが顕著で、つい最近まで独自な制度・慣習が残っていた事が、色々な書物で紹介されています。
改めてそれらの事象をみると当時の過渡期であることを意味し、母系という安心基盤から抜け、不安な空間でどう馴染んでいくか?(強制圧力をどうするか?)という試行錯誤の現れだったのでは無いでしょうか。
※そうであろう慣習の事例は、このブログでも紹介されてます。
「明治時代、日本の庶民である娘・若者達はデートをして相手を決めていた。」 [2]
「寝屋子制度(若者宿)」が残る答志島[三重県] [3]
今日はその「ケイコニヤル・カセイニヤル婚姻」を紹介している「婚姻覚え書き」瀬川清子薯(昭和三十二年)から一部引用したいと思います。
続きを見る前に、こちらもヨロシク!
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【瀬川 清子】
1895年秋田県生まれ。東洋大学専門部倫理学科卒業。民俗学者。柳田國男に師事、精力的な民俗調査・研究で日本の民俗学発展に尽力。大妻女子大学教授、日本民俗学会評議員などをつとめる。著書に『女の民俗誌―そのけがれと神秘』(柳田賞受賞)など。1984年没
以下引用です。

「四ケイコにやる嫁」
いつの時代も静止して居ったという時代はないのであるが、ここ一世紀間の日本の生活の変りようは過去十世紀間のそれにも劣らぬ急激なもので、西隅の孤島対馬もその台風圏外にはあり得なかったが、その通過の時に遅速があるので、島内各部落間にも文化的な時代差があるが、今回の調査に協力してくれた島の老人たちの生活の記憶を資料にして、現代直前のそれを理解することからはじめたいと思う。
(中略)
「婚姻」
その結婚はどのような経過をとって成立したのであろうか。縁談が早いので娘時代がないようだったが、と老婦人たちは若い頃を回顧している。他の地方のように娘に婚舎を与える、若者に婚舎を与えたという例が少く_(さずな佐須奈・あれ阿連にはあったが_V、この島の南にふれつ布列している五島列島に比べると宿の生活も稀であるが_(豆殴にはアスビヤド、さご佐護にはワカヤド・女ノヤドという泊宿があったというが_)、青春の自由が黙認せられておったことは、本土及び他の島々と変りがない。若い者の遊ぶのと結婚は別だといい、嫁入りには必ずテマへ提灯を持って来る、というのは嫁になると夜行に提灯をも.たねばならぬからである。対馬では嫁入りさせるのをケイコにやるということは、早くから報告せられているが、}部の部落またはある婚姻については事実であった。
(中略)いつ戻るかわからんから鉄漿付着物などは持ってはゆかぬ、ケイコだけに行ってみよ、気に入らにゃかえせ、といった、等と昔語りをして、結婚が堅くなった今日の若い者に讐められている年寄もある。
(中略)つまり婿入婚時代の生活の習慣が鮮明に残っているのに比例して、婚姻に対する古い考え方も残っていて、性の問題に淡白な村人は、実際は婚家に嫁入りさせて置きながら、なおかつそれの相性を試み、家をケイコする融通の利く期間であるかのように、子が出来るまではたやすく去就を決したのではなかろうか、と考えるのである。佐須奈地方の婿入婚と、ケイコニヤル嫁入婚の間に、嫁入りを早めた何らかの社会事情の変遷を見出すことが出来れば幸である。
かもいせ鴨居瀬は古い時代に来住した者の村だということであるが、ここでは話が決るとカセイニヤルといって、娘を簡単に婚家に移して、しばらく同居させ、正式に祝言する前になると、娘を里方に帰らせて支度をして改めて嫁入りさせるということである。カセイと呼んで、まだ完全に婚家の者でないことを表明しているのは、ケイコニヤル婚姻と同じ心持があるからではなかろうか。しかもケイコニヤル婚姻よりも、}歩現代の嫁入婚に近づいている形である。本土でアシイレと称する婚姻の中にも、このカセイニヤル婚姻と内容を同じくするものがいくつかあるが、それは最も嫁入婚に近い様式である(「婚姻習俗語彙」(以下省略)

(引用終わり)

「嫁入り」となると隣近所の人も加わり、盛大にお披露目されるイメージをしていましたが、ここでは「嫁入り」=「まずはお試し」なので祝いは簡素で、嫁入り道具も最小限だそうです。
しかし子が出来れば一転、帯祝いをはじめお披露目も行われ、それ以降の節目ではその都度祝いが盛大に行われていました。
これは「嫁入り」が正式に決まった事を意味していて、「子供が出来るくらいだからもう良いだろう(馴れただろう)・・・。」という判断がされていた様です。
この婚姻が特殊な様式か?と言えばそうではなく、近畿地方や四国でも似たような報告がある様です。
婿入りから嫁入りに転換していく経過は、そう簡単なものでは無かったという事です・・・。

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