
東洋と西洋。
これまで、日本の農村社会(惣村、用水利組合など)やヨーロッパの農村社会(領主裁判制、三圃式農業など)について見てきました。
(詳しくは、CATEGORIES D 東洋と西洋 [1]をご覧下さい。)
そこで今回は、日本のお隣、朝鮮半島の農村社会について探ってみたいと思います。
↓いつものをヨロシクお願いします。
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まずは先史時代、朝鮮半島の農村社会とはどのような社会だったのでしょうか?
以下、サイトkorean net>歴史>先史時代 [4]より、以下に紹介します。
考古学的側面から見た場合、人類の歴史は旧石器時代から始まっている。韓半島にもやはり旧石器文化が発達していた。しかし、旧石器文化の存在が韓半島で確認されたのはそれほど古い話ではない。
旧石器人たちは採集と狩りのため、一定規模の共同体生活をしていたようだ。新石器時代は石を磨いて作った磨製石器と土器が重要な指標となる。石を磨くためには砥石が必要だったが、その砥石を発明するまで実に長い年月を必要とした。土器は土で皿を作って焼いた物で、料理をしたり物を貯蔵するのに使われた。新石器時代を代表する土器は櫛目文吐器だった。
新石器時代の特記すべき点は農業生活が始まったということである。採集経済から生産経済への転換を示している。農業生活が本格的になるにつれ生産性が大きく高まったのは青銅器時代に入ってからだ。生活の変化に伴い自然と社会生活全般において急激な変化が訪れた。青銅器で作られた武器で武装した部族は征服と戦争を主導し、その結果原始共同体が解体し、私有財産が発生して、階級が生まれた。青銅器で武装し、琵琶形短剣と鏡及び鈴などで着飾った支配層はドルメンや石棺墓(ドルノル墓)の主でもあった。その結果、歴史上<国家>と呼べる小さな都市単位の国家が登場するに至る。従来は部族国家、都市国家、邑制国家、君長社会などと様々な名で呼ばれていたが、最近は城邑国家という用語がよく使われている。
4)旧石器、新石器時代と共同生活
旧石器時代は採集と狩りの時代だった分、何よりも協同的な共同作業が必要とされていたようだ。自然と一定規模の「共同体」生活を営んでいただろう。一種の原始共同体生活である。石壯里の家の跡の場合、8-10人ぐらいが暮らしていたと推測される。組織構成と運営に対しては明らかではない。新石器時代の政治について物語ってくれる直接的な資料はほぼ存在しない。ただ、彼らの家の跡が一箇所に集まっているのを見ると、集落を成して<集団>、または<共同体>生活をしていたものと考えられる。
また、後代の文献や伝えられている神話や伝説などの説話を通じて幾分想像がつく。新石器時代の基本単位は<氏族>であった。氏族は各自一つの村落を成して暮らしていた。幾つかの穴倉が集まっているのを見ると、少なければ幾つかの家族、多ければ数十個の家族で構成されていた。家族ごとの人口は夫婦と子どもを合わせて4-5人程度だったと推測される。彼らは<血縁>を中心に繋がっていた。やはり氏族も血縁を中心としてみんなが繋がり合った一つの独立した単位体だった。
<氏族長>がこの氏族を代表した。そして人口がだんだん増えるに連れて強大化した氏族が分裂したり、族外婚姻などを通じて幾つかの氏族が連帯してより大きな社会である<部族>を形成することになった。このような部族が氏族と区別される一番大きな特徴は地域を基にした地縁社会だったという点だ。部族の重要な問題は氏族長たちによって構成された族長会議で論議を経て決定された。同じく部族を代表する部族長もこうして選ばれた。
朝鮮半島においても、旧石器時代(採取・狩猟時代)には原始共同体が、新石器時代(約7000年前~)には<氏族>を基本単位とする共同体社会が存在していたようです。
また、新石器時代には早くも農業生産が始まっていたようです。
そして、青銅器時代(約4000年前~)生産性が高まるにつれ部族間の私権闘争が始まり、共同体社会は解体されていきました。
このように、日本の縄文時代の頃、朝鮮半島では早くも私権闘争が始まり小国家が誕生していた。この辺は、日本(縄文~弥生~古墳時代)に比べると凡そ2000年位早い展開と言えそうです。
では、このような私権闘争下における農村の実態はどうだったのでしょうか
庶民(農民)たちの共同体性は失われていってしまったのでしょうか 
さらに調べてみたいと思います。 🙂