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骨が語る古代の家族と社会5 古墳時代になぜ父系化したか?

シリーズ最後に、古墳時代に父系化した原因を考察します。田中良之著『骨が語る古代の家族-親族と社会』(2008年)より。
骨が語る古代の家族と社会4 古墳時代 [1]で見たように、
双系のキョウダイ原理(基本モデルⅠ)に基づく社会が、
5世紀後半に男性家長の傍系親族を排除して、家長の子を加えた父系構成へと大きく変化した(基本モデルⅡ)
6世紀前半~中葉になるとさらに基本モデルⅡに家長の妻が葬られるようになり、はじめて夫婦同墓となる(基本モデルⅢ)
しかし、第二世代は基本モデルⅡ(=Ⅰ)のまま、すなわちキョウダイによって構成されており、それぞれの配偶者は同墓ではない。
このように5世紀後半の父系かつ直系への変化が、家長などのリーダーにのみに生じたものであり、家長権の父系継承にともなって家族が編成された結果、父系家族が成立したものと考えられる。
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なお8世紀に作られた戸籍では、非先進地域でより古い家族の形態をもつ美濃国や下総国などで、戸主のみが妻を同籍(あるいは同居)し、他の成員は配偶者を同籍しないことが指摘されてきた。これは基本モデルⅢと類似し、奈良時代まで連続していることがわかる。
★では、5世紀後半の父系化は何に起因するものだろうか?
以下、軍事的緊張説、渡来人説、中国からの学習成果説を検討する。
1.軍事的緊張説
母系社会が軍事的緊張関係がきっかけとなり、戦闘を含めた男性労働の重要性が増して、結婚によって男性が集団の外へ出ることを嫌うようになる。その結果男性が集団に残る夫方居住婚となり、父系の親族関係へと移行していくという説である。
では5世紀後半に軍事的緊張はあっただろうか。
記紀によれば、5世紀代~6世紀前半の雄略朝から継体・欽明朝にかけて、いくつかの軍事的事件が認められる。国内的には葛城円大臣とそれにつらなる王族の殺害(456年)、吉備国造の反乱(463年)、筑紫君磐井の反乱(527年)、武蔵国造家の内紛(534年)など、畿内の政権中枢部と、対地方豪族との双方における武力紛争である。その結果、継体・欽明朝には屯倉設置の記事が登場してくる。つまり、この時期は中央政権内部で王権の伸張を果たし、同時に地方有力豪族を武力制圧して直接支配へと乗り出す時期なのである。
さらに外戦の記述もある。例えば、462年と476年には倭兵による新羅領侵犯、『宋書倭国伝』にみえる倭王武の上表文の翌年の479年には大和にいた百済王子が倭の兵士に守られて帰国し、東城王として即位している。
しかし国内的にも対外的にも軍事行動はこれだけではない。『魏志倭人伝』にも邪馬台国と狗奴国の緊張状態が記されているし、『記紀』には雄略朝以前にも皇位をめぐって皇子と諸氏族の抗争が記述されている。また対外的にも「好太王碑文」に記された391年の対高句麗戦をはじめ、4世紀末から5世紀代を通じて韓半島での軍事行動が『記紀』にも『三国史記』にも記されているのである。従って、軍事的緊張関係の存在はいえても、5世紀後半に特別な緊張関係があったというわけにはいかないだろう。
そして、そもそも軍事的緊張から夫方居住婚となり、結果として父系になったのであれば、基本モデルⅡ・Ⅲにおける非家長のあり方が説明できないのである。結婚した女子が父方に属したり、男子の嫁も排除されているということはありえない。従って、軍事的緊張は男性の優位性を強調し、父系への傾斜の前提をなしたかもしれないが、主要な原因ではないと考えられる。
2.渡来人説
軍事的要因の他に、韓半島からの渡来人が父系の親族関係をもち、その影響でわが国の親族関係が父系へと変化したと考える説がある。
しかし、韓半島が古代から今日のような父系社会であったかどうかには疑問が提示されている。韓国の伽耶地域にある遺跡、礼安里(エアンリ)古墳群は、4世紀から7世紀まで営まれた双系的社会で、親子継承を基本とせず、夫婦が埋葬の単位とならない。また、呪術的・儀礼的側面が重視される社会でもあったと考えられ、前半期の古墳時代と基本的には同じといえる。
伽耶地域以外ではほとんど人骨資料に恵まれない状態だが、韓国の社会学者である崔在錫によれば、高句麗・百済は基本的に類似した父系継承を行う父系社会であり、それに対して新羅では父系継承は完全ではなく、父系出自集団自体が存在しない選系の社会であったという。
(引用者注:選系ambilinealとは、各自が父系・母系を選択可能で、どちらか一方、あるいは両方を選択的にたどることができる。)
ところで、漢が韓半島に設置した楽浪郡の官人たちのうち下層官人は韓半島の現地人であるが、彼らの墓もまた中国風の夫婦同一墓を原則とする。このことは、高句麗が楽浪の故地を支配し官人を含む亡命者を多数領域内に留めたことを考慮すると、仮に漢代以前のこの地が父系社会でなかったとしても、中国の宗族(父系親族)原理の影響を受け父系社会となっていた可能性を示す。
百済も同様中国南朝風の夫婦同墓であるが、百済が帯方郡の故地に建国し、亡命者を留めたことを考えると、高句麗と同様に父系化していた可能性がある。
(引用者注:高句麗は北鮮の高句麗の婚姻制 [3]にあるように、後漢書では『妻問婚』としており、百済もおそらく同様で、中国文化の影響で父系化したと考えられる。)
以上のように、古墳時代に最も関係の深かった伽那地域は双系社会であり、わが国の父系化に影響を与えようもなかったといえよう。
3.中国からの学習成果
5世紀は「倭の五王」の時代であり、『宋書倭国伝』および『本紀』によれば、5世紀前半から後半にかけて10回にわたって南朝の宋に朝貢している。朝貢により中国王朝の冊封体制に組み込まれると同時に、中国の支配体制・支配イデオロギーにふれることによって、府官制的秩序の形成が進められ、支配秩序の整備が促進されたと考えられている。この支配イデオロギーの中に、既に中国では定着して久しい父系直系の継承、それに基づく一系累代の王統・家系の主張、あるいは家族形態までもが含まれていた可能性を考慮する必要があるだろう。その意味では、「上から」の親族関係の変化であった。
さらにこの時期は、「氏」が形成されていく時期でもある。支配層が大王家を中心とした系譜関係の中に位置づけられ、新たな親族集団=「氏」として擬制的に再編・整備されていった。このように、倭五王の朝貢の過程で、5世紀中葉には支配層において父系へと転換が始まり、後半には農民層にまで及んだと考えられる。農民層までの父系化が早々に進行した要因の一つに、首長から農民層までを結びつける親族集団がいまだ健在であったことをあげることができよう。
しかし、双系的親族関係を父系的に編成するといっても、一気に変化させることは困難であり、当然それまでの親族関係と齟齬をきたしたと思われる。そのような状況下で、とりあえず家長の父系継承だけを実践させ、一方では非家長に双系的性格も残してしまうことになったと考えられる。

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