2008年08月29日
北鮮の高句麗の婚姻制
日本人の起源に関係する遊牧騎馬民族匈奴の婚姻制は一夫多妻制で、嫂(あによめ)婚制、姉妹婚制を伴うものでした。
それが半牧・半農の烏恒・鮮卑では、略奪婚→婿入りして2年間労役→その後夫方へ嫁取り(その際、住居や生活用品は全て妻の家が整える)、というように母系に父系が入り込む折衷型となります。
では、北鮮の高句麗は?
高句麗(ツングースの夫余)は烏恒・鮮卑より母系色を強く残しており、後漢書では『妻問婚』と称しています。
後漢書の高句麗伝
>婚姻は妻問い婚で、子供が成長した後に(夫の家に)連れて帰る。
応援よろしく by岡
魏書では、女の家の主屋(おもや)の後に婿屋(むこや)とよばれる小屋を作り婿入り、子が成人すると父方へ、というようにさらに具体的に記述しています。
魏書東夷伝の高句麗伝
>高句麗の習俗では、結婚する時、〔両家の〕話し合いがつくと、娘の家では母屋の裏に小屋を作る。これを壻屋とよんでいる。壻は日暮になると嫁の家に行き、戸外で自分の名を名のる。そして跪拝し、嫁の宿に入ることを許してくれるよう願うのである。このようなことを二度、三度すると、娘の両親は壻の願いを聴きいれ、〔娘のいる〕小屋の中に宿ることを許すのである。〔この時〕傍に銭や絹を整えておく。〔夫婦に〕子が生まれ、その子が成人すると、〔壻は〕妻をつれて家に帰る。
さらに周書では、服喪の制度が漢族と同じとしており、漢人が混在していたことが分ります。(なお遊女はどのような存在かは不明。)
周書の高句麗伝
>風俗は淫を好み、それを恥とはしない。遊女がいるが、夫の無い普通の人である。婚礼には財幣(金銭や贈物)は省いて無くし、もし財を受ければ、これを売婢と言われ、習俗では甚だこれを恥とする。父母や夫の喪は、服喪の制度は華夏(漢族)と同じ。
高句麗人が日本の支配者になっても、婚姻制は先住の渡来系弥生人の母系妻問婚(高句麗の婿入りではなく通い)に同化してゆく素地があったことが分ります。
- posted by okatti at : 2008年08月29日 | コメント (4件)| トラックバック (0)
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comments
むむむっ。色んな説があったんですね。考えてたくさんアイデアを出してみるのはいいけれど、その説に反する事実や説明できない事実がでてきたときにそれを組み入れないと、トンデモな仮説になっちゃうんですね。。
>まりも☆さん
コメントどうもです。私もまりもさんの意見に同感です。
何故、学者は一度世に出した自説に拘ってしまうのでしょうね!
つづきを、初期人類は骨を食べていた!vol.13(直立二足歩行に関する仮説紹介-2)という形で、アップしました。
こちらも、なかなか面白いですよ。
moncler women’s down coat long mokacine black 共同体社会と人類婚姻史 | 初期人類は骨を食べていた!vol.12(直立二足歩行に関する仮説紹介-1)
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