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2008年08月25日

記紀にみる兄妹婚

日本では、庶民の間では、戦前頃まで「夜這い婚」が残っており、性に対しておおらかだったことが明らかにされています。
一方、支配階級は父系制で窮屈という印象が強いのですが、今回は、記紀から天皇族の婚姻を論及している論文を紹介させて頂きます。
塞の神における兄妹相姦についての記号論的考察より

兄妹相姦の物語は世界的に普遍的ではあるものの、深い罪悪感を伴い、そのおおむねは当事者の異常な死をもって結末する。
ところが、東南アジア地域にあってのみは、それが肯定的に、微笑ましさと好感をもって語られていることが知られる。
このような兄妹相姦肯定文化圏とでも云うべきものの範囲は、東南アジア全般を中心として、中国西南部、および沖縄・奄美の西南諸島を経て、我が国の本州にまで広がっているもののようである。
この範囲は、ちょうど水田稲作の文化圏とほぼ一致する。あるいは、中尾佐助氏が提唱した照葉樹林文化圏、もしくは、鳥越憲三郎氏の云う倭族の文化圏と重なっていると見ることもできよう。

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このように兄妹相姦を肯定する文化圏の一部であるためであろうか、我が国では、その古代史の中においては兄妹婚はごく通例のことである。
すなわち、父が同じであっても母が異なる兄妹、いわゆる異母兄妹の結婚は数多く見ることができる。例えば、仁徳天皇と八田皇女、履中天皇と幡梭皇女、敏達天皇と推古天皇(額田部皇女)、藤原不比等と五百重娘などを始めとして枚挙に暇もない。
これは、当時は母系社会であり、妻問婚の時代であったため、子はそれぞれの母の家で生まれ、かつ、それぞれの母の下で育てられていたために、母が異なれば父が同じ兄妹でも、別の系統の他姓の人のごとく認識されていたためであろうが、それのみならず、同母兄妹の結婚と思しきものも幾つか見ることができる。

(1)天智天皇と間人皇后
 舒明天皇は皇后宝皇女(後の皇極・斉明天皇)との間に葛城皇子(中大兄(なかのおおえ)皇子、後の天智天皇)、間人(はしひと)皇女、大海人(おおあま)皇子(後の天武天皇)の3人の子を儲けた。間人皇女は軽皇子(孝徳天皇)の皇后となる。しかし、中大兄皇子と間人皇女とは相愛の仲であった。
 白雉二年の末、6年の歳月を費やして造営した難波長柄豊碕宮が完成し、孝徳天皇以下朝廷はここに移った。しかるに2年後の白雉四年には、皇太子中大兄皇子は天皇に、大和に都を遷そうと云い出す。もとより天皇は許さない。すると、中大兄皇太子は、母の皇極上皇、弟の大海人皇子、それに妹の間人皇后までをも引き連れ、群臣を引き具し、孝徳天皇一人を難波に残して勝手に大和へ移ってしまう。間人皇后は夫を捨て兄の方に従ったのである。
 この時、孝徳天皇が間人皇后に贈った歌が、
「鉗(かなき)着け 吾が飼う駒は引出せず 吾が飼う駒を人見つらむか」(厩の中から引き出しもせず、いつも棒に頚をつないで大切に飼っている私の駒を、人が見たことであろう)。
 ここで、駒が間人皇后、人が中大兄皇子を指すことは明かであるが、これは、それだけの意味ではない。吉永登氏によると、この歌の中にある「見る」という語は、古代、男女の間で用いられる場合は「夫婦の契りを結ぶ」と云う意味であり、従って、この歌は、自分を捨てて、いま、兄中大兄に抱かれている間人への孝徳の怨みの歌であると云う。孝徳は傷心のうちに、翌五年、難波において没する。
 その後、中大兄は間人との間を結婚と云う形で表沙汰にすることは避けた。しかし、孝徳の没後、再び母皇極上皇が斉明天皇として重祚し、中大兄は引続きその後も長く皇太子のままでいたのは、天皇になると皇后を決めねばならないが、さりとて、間人を皇后にすることも出来なかったためであろうと吉永氏は推理している。
 少なくとも、中大兄と同母妹間人との兄妹相姦は当時公然の秘密であった。しかし、二人の関係は、他人の妻を犯したという意味で不倫(姦通)であり、スキャンダルではあっても、天も人も許さない禁忌を犯したものとして断罪されるものではなかったのである。

(2)木梨軽皇子と軽大娘
 允恭天皇の子の木梨軽皇子(きなしかるのみこ)とその同母妹軽大娘(かるのおおいらつめ)(軽大郎女)との相姦はよく知られているところである。
 木梨軽皇子について日本書紀は「容姿佳麗、見る者おのずから感ず」と記して美男子であったと述べ、軽大娘についても「また艶妙」と記し美人であったとする。日本書紀は二人の相姦は露見し、軽大娘は伊予の国に流刑になる。木梨軽皇子は皇太子であったので罪せられなかったが、群臣の心は彼から離れてゆき、やがて允恭が没した時、穴穂(あなほ)皇子(後の安康天皇)に囲まれて自殺したと述べる。
 古事記は露見は允恭が没した直後のこととし、木梨軽皇子は穴穂皇子に囲まれて捕らえられ伊予の国へ流されるが、軽大娘は彼を流刑先の伊予まで追って行き、そこで心中自殺したとする。
 近親相姦を論ずる場合、この史談をもって、我が国においては古代より同母兄妹婚は禁忌であったと述べるのが一般であるが、私はこのような論には疑問を差し挟まざるを得ない。
 それと云うのも、木梨軽皇子を死に追いやった穴穂皇子自身が同母姉弟婚をしているからである。
 すなわち、古事記によると、穴穂皇子はやがて皇位につくと、父の異母弟の大草香皇子を殺して、その妃となっていた同母姉の長田大郎女を奪って皇后にするという挙に出ているからである。
 日本書紀の方は、大草香の妃であった女性を従妹にあたる中磯(なかし)皇女であったとして同母姉弟ではなかったようにしているが、そのために各所に不自然な点がちらついている。大草香皇子が同母妹(幡梭(はたひ)皇女)の娘(中磯皇女)を妻とする不自然は有り得ないことではないとしても、弟(雄略天皇)が兄(安康天皇)の妻(中磯皇女)の母(幡梭皇女)を妻とするという決定的な不自然さになっている。
 従って、私には、この話は穴穂による木梨軽皇子殺害と皇位継承を正当化するための意図をはらんだもののように思われる。木梨軽皇子と軽大娘が深く愛し合ったことは事実であろう。しかし、当時は同母兄妹の相姦といえども社会的地位を全て失うまでの強烈な禁忌ではなかったのではあるまいか。

(3)崇神天皇と御間城姫
 我が国の古代史の中に、兄妹婚とはどこにも書いてないし、また、そうでないように記しているが、どうも、兄妹婚ではないかと思われる事例が、崇神天皇(紀では御間城入彦(みまきいりひこ)五十瓊殖(いにえ)、記では御真木入日子印恵)と、その正妃(紀では御間城姫(みまきひめ)、記では御真津比売)とである。
 記紀はいずれも、姫を大彦の娘としている。大彦は崇神にとっては伯父に当たるから、これは従兄妹婚である。しかし、古事記は他方で崇神の父である開化天皇の段で、御真木入日子印恵と御真津比売を同母の兄妹としている。そして、大彦の子孫について記した孝元天皇の段の記述の中には御真津比売は記されていない。
 そもそも、同母の子たちには類似した命名が行われるものである。 欝色雄(うつしこお)-欝色謎(うつしこめ)、伊香色雄(いかがしこお)-伊香色謎(いかがしこめ)、豊城入彦(とよきいりひこ)-豊鍬入姫(とよすきいりひめ)、狭穂彦(さほひこ)-狭穂姫(さほひめ)など、例示に事欠かない。これらから見れば、御間城入彦と御間城姫は同母兄妹に違いない。
 結局、記紀の編者は、兄妹婚を忌避しようとして作為しながらも、開化記において消去し忘れて、馬脚を現してしまったものではないかと感じられるのである。そして、我が国古代においては兄妹婚はさほどの禁忌ではなかったのではないかと思わせるのである。

このように、我が国古代においては、異母兄妹間の結婚はもとより、同母兄妹間の結婚といえども必ずしも禁忌ではなかったと思わせるものが、 延喜式巻八神祗八祝詞が記す大祓の神事の祝詞の中にもある。そこでは、
「国つ罪とは、——-おのが母犯せる罪、おのが子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪、畜犯せる罪、——-」と述べている。
すなわち、母子相姦、父娘相姦は獣姦などと並ぶほどの罪であると云うが、兄妹については、異母兄妹はもとより、同母兄妹の相姦についても、何ら罪として数えていないことが注目される。

一方、半島には、次のような民話も残されているようです。

朝鮮民話3
 今村鞆氏は「朝鮮風俗集」に、チャンスン(長生)の由来譚を述べている。
 チャンスンは、我が国の塞の神と同じように村境に立てられ、天下大将軍、地下女将軍とそれぞれに書かれた男女一対の木偶のことである。
 張という大臣が王に「肉親の兄妹は決して交わることはない」と云い張ったので、王は「では、お前の息子と娘を深山に放せ」と命じたところ、やがて二人の間に子供が生まれる。そこで、彼らは都から追放されて死んだ。チャンスンはその魂を慰めるものである。
 あるいは、別の話として、張という宰相が妻を失い、淋しさのあまり娘と通じたので、王は張を処刑し、見せしめのために、その像を立てるように命じたのがチャンスンであるとする。(チャンスンは朝鮮半島における塞の神の形と考えられる。そこには、塞の神と同じように兄妹相姦の物語がからむ。)

もともと兄妹婚をタブーとしていた部族も、日本に移り住んだ後は、婚姻観も融合していったのでしょうか?
半島における婚姻制がどのようなものだったのかという追求も不可欠のようですね。。

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キサキが出勤制?って、大胆な考え方だなと思いましたが、皇后になっても出身氏族のもとで子生み子育てをするのですから、その方が実態に合っていますね。
古代の皇居が転々としたのが、天皇が母方の家に育ったためと考えるのも、かなりすっきりしました。

  • まりも☆
  • 2008年12月6日 18:50

確かに、後の江戸城内に代々の将軍の政庁および大奥があるという形とは異なりますね。女は「三界に家なし」になってしまうし。

  • 2008年12月7日 20:37

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